【真壁の登録文化財top】
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【11】中村家住宅[なかむらけじゅうたく]
【12】西岡家住宅[にしおかけじゅうたく]
【13】旧樺穂小学校[きゅうかばほしょうがっこう]
【14】出川家住宅[でがわけじゅうたく]
【15】鈴木醸造[すずきじょうぞう]
【16】谷田部家住宅[やたべけじゅうたく]
【17】鈴木家住宅[すずきけじゅうたく]
【18】猪瀬家住宅[いのせけじゅうたく]
【19】塚本家住宅[つかもとけじゅうたく]
【20】根本医院[ねもといいん]
▲見世蔵
▲中村裕道画集より
① 見世蔵〔大正2年〕
② 主屋〔大正2年〕
中村家は、江戸時代末期に木綿商を営んでいましたが、その後は米問屋に転じ、先々代まで続けていました。
建設に携わった大工は、地元の増渕、左官は川原町の小原で、この時、土蔵3棟と納屋3棟も建築されていますが、こちらはいずれも現存していません。
▲登録標
▲店舗、土蔵
① 店舗〔明治中期〕
② 主屋〔明治中期〕
③ 土蔵〔明治中期〕
西岡家の祖先は、近江日野町出身の近江商人として知られています。西岡家がこの地に店舗を構えたのは明治35年、祖父の時で、それまで本家の弟として西岡本店の支配人を務めていましたが、暖簾分けをして上宿町に支店を出す形で独立し、後に味噌・醤油の醸造と本店の酒の販売を行うようになりました。
▲修景された塀
昨年(H19)建築士会桜川支部がブロック塀から板塀に修景しました。
▲登録標
▲旧樺穂小学校校舎
① 旧樺穂小学校校舎〔明治中期/大正期移築〕
飯泉家の敷地に現存する樺穂小学校旧校舎は、昭和20年代後半に廃止された東校舎1棟で、飯泉家の先々代が購入し、現在地に移築、昭和50年頃まで飯泉和洋裁学院校舎として使用していました。
▲”学”の鬼瓦、当時の職人さんの遊び心というんでしょうか?おもしろいです!!
▲そして現在は、知る人ぞ知る”仏像修復工房”だったりします!
詳しくは、達人のコーナーで!
▲登録標
▲主屋
① 主屋〔昭和12年〕
② 石蔵〔昭和12年〕
いずれの建物も、昭和12年、旧樺穂村の出川家が質屋を営むつもりで建設したと言われています。しかし、実際には貸家として数年間利用された後、小学校教師であった当主の祖父が移り住みました。戦後、昭和26年に出川薬局を開業し、現在に至っています。
▲登録標
▲長屋門
▲中村裕道画集より
① 主屋〔嘉永7年(1854)〕
② 長屋門〔明治初期〕
鈴木家は、近世初期からこの地で農業を営んできた旧家として知られていますが、醸造業(醤油)は先代の兄が大正14年に始めたものです。
▲長屋門
▲主屋
▲登録標
▲長屋門
▲中村裕道画集より
① 長屋門〔江戸末期〕
谷田部家は、近世初期からこの地にあって代々名主を務め、明治初期には戸長も務めた旧家です。
▲塀
▲登録標
▲表門
① 表門〔明治後期〕
② 土蔵〔明治後期〕
鈴木家は、江戸時代後期の文化・文政期頃からこの地に在ったといわれる旧家で、4代前(明治中期から大正期)までは「油屋」の屋号で肥料商を営み、同時に質屋も兼ねていました。
▲表門正面
▲登録標
▲薬医門
▲中村裕道画集より
① 薬医門〔明治初期〕
猪瀬家は、平家出身の真壁氏と同盟関係にあった佐竹源氏の家臣で、明治期から昭和初期にかけて2代にわたって戸長(郡長)や町長・県議などを務めました。
門は使用されている材料から江戸末期から明治初期に造られたものと思われ、他に類を見ない精巧な彫刻が施されており、町並景観の一翼を担う町内を代表する薬医門です。
▲登録標
▲見世蔵
▲中村裕道画集より
① 見世蔵〔大正中期〕
② 住居〔大正13年〕
③ 土蔵〔明治41年〕
④ 門〔明治40年〕
塚本家は、昭和12年8代目まで酒造業を営んでいた旧家で、現当主で9代目を数えます。
同家がいつ頃から酒造業を始めたかは明らかではありませんが、5代目の時には既に酒造業営んでおり、明治27年見芽通りから桜川市歴史民俗資料館に通じる道路までの敷地を本家から購入し、酒蔵の建設に着手したことも知られています。
▲登録標
▲高麗門
① 門(高麗門)〔江戸末期〕
根本家は、江戸時代初期にはこの地に屋敷を構えていた旧家であり、現当主は19代目にあたります。
江戸時代には漢方医として笠間藩の御典医を務め、明治以降も代々医師を受け継いで現在に至っています。
かつての主屋も昭和50年改築された式台玄関を持つ和風の主屋と同位置、ほぼ同規模・同形式でしたが、取壊しの際に文政年間(1818~1830)建設の墨書が発見されています。
▲登録標