よみがえる金次郎【弐拾】~【弐拾壱】


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【弐拾】その後の青木村
【弐拾壱】吉野桜の由来


壱話から壱九話までは、市町村合併前の大和村の広報紙に連載していたものです。
弐拾話以降は、その後の地元の住民の皆さんの地道な活動によりまとめられたものです。



【弐拾】 その後の青木村


▲圃場整備事業の竣工を記念する「甦る愛郷豊穣の礎」

≪礎(撰文)より≫
 本地区は大和村の北部に位置し、村の中央を南流する一級河川桜川流域に水田地帯として拓けた地域である。この土地に対し先人は桜川からの用水確保や改良に手段を尽くして努力し、村の穀倉地帯として発展してきたが、昭和40 年代に入り経済の急速な発展と農業機械化近代化が進展し、50 年代には一層米の生産調整が厳しい課題となってきた。

 しかし、進展する農業情勢の変化に対応するには従前の圃場は狭隘にして散在し、大半は半湿田であり、農道も狭く、屈曲蛇行した用水路も用排兼用のため、いずれも目的を十分達成することができなかった。又、桜川は屈曲甚だしく降雨の度に河川堤が崩壊し冠水及び土砂流入等により農作物への被害も甚大であった。

 この対策として昭和58 年圃場整備事業の構想をもって推進委員会を発足し、委員長を中心として昼夜を問わず説明会、話し合いをもって事業実施への推進を図ったが困難を極め結論には至らなかった。

 昭和61 年から62 年の2 年間、該当水田の水稲作付けをせず転作を試みたが、半湿田のため栽培管理が非常に難しく、部分的には荒地となり苦悩のあげく耕作を放棄せざるを得なかった。 
 地域農業の存亡が問われるこの厳しい状況の中で、継続して推進に努力した結果、地域の永年の願望であった圃場整備事業が平成3 年、青木地区を基に高森地区、羽田地区、岩瀬町の地権者全員の同意が得られた。

 平成3 年度に事業採択を得ると共に大和桜川地区県営圃場整備事業実行協議会に組織を改め、霞ヶ浦用水土地改良区を実施母体として、茨城県下で初めて低コスト大区画圃場整備事業が着工の運びとなり実施体制の万全が図られた。

 併せて一級河川の改修、集落間を結ぶ一級村道改良事業、幹線農道の改良舗装、青木堰の電動化改修、霞ヶ浦用水事業の導入に伴い、第1、第2 用水機場を設置し、用水の効率的配分を行う為の全線パイプライン化、更に地下排水方式、暗渠排水等を施工した。

 且つ、受益者負担金については、河川改修用地及び道路改良用地等の創設費を事業費に充てて対応した特質のある地区として工事に着手した。以来10 年の歳月と総事業費11 億3,800 万円余の巨額を投じ、仕上げ面積67.2 ヘクタール(公共減歩16.7%)の圃場が整備され、整然とした美田に甦り、計画的営農による生産性の高い農業経営の基盤が確立されたのである。

 現在ブロックローテーション方式により集団転作が実践され、その成果に対し平成10 年度農林水産大臣賞を受賞し、全国各地より先進地として研修に訪れる地域となっている。青木の歴史に輝いている二宮尊徳先生の青木村仕法として村の復興と同時に人の心の復興を成し遂げた「積小為大の精神」は豊穣の根本という教えを、平成の世に再現できたことは、未来に向かっての更なる子孫繁栄の礎となるであろう。

 ここに事業遂行にあたり、地権者各位及び茨城県、大和村、関係機関の役職員熱意と献身的な努力により厳しかった幾多の困難を克服した関係者各位の功績を称え深甚なる感謝を申し上げると共に、本事業の竣工を記念し、事業の概要を明記して永く後世に伝えるものである。

平成13 年3 月1 日
大和桜川地区県営圃場整備事業実行協議会
会長(大和村長) 飯島輝信
(撰文)大和桜川地区圃場整備事業推進委員会
委員長 廣澤光一郎


▲現在の青木水田(平成21 年1 月)


【前段】
 尊徳が荒川泰輔に宛てた手紙「箱根の櫻と櫻川」に、雨引の観音様に大和国吉野の山桜の記述がありました。
 平成21年に、その縁を頼りに吉野山の桜守に依頼し、山桜の苗木を譲り受け青木堰付近の河川敷に植樹しました。


【弐拾壱】吉野桜の由来

≪吉野桜(白山桜)についての問い合わせに対する紺谷氏から廣澤光一郎氏への返信文 平成21 年1 月付≫

 平成二十一年の新春を迎え、心新たに新年のスタートでございます
 皆様には、お変わりございませんか

 先達ては遠いところお越し頂き ご苦労おかけしました
 その折 吉野の白山桜の特質等あったらお知らせくださいとのことでしたので 乱
筆乍お知らせします

 吉野山の桜は 千三百年の昔 役小角(えんのおづね)という修験行者が 諸国の霊峰で修業を重ね 吉野の奥山山上ヶ岳で修業中 蔵王権現を感得し その姿を かたわらの桜の木に きざんだといわれ 以来桜の木は 吉野山の神木として 山上ヶ岳に修行に来る修験者 山岳宗教の方々によって五本、十本と それぞれの身分によって 蔵王権現様に献木植樹したのが始まりといわれております

 明治にいたり 廃仏毀釈により堂塔伽藍は ほとんど取りこわされ 桜に変わって杉や桧が植林され 今では 約五十町歩 約三万本の桜があるとされておりますその桜は春四月半ばより 二十五日頃が満開になります

 新芽は赤く 太陽の光に映えて花は輝き それはそれは何と表現してよいやら 見事な美しさです染井吉野の花は 花ばかりの美しさですが 吉野の白山桜は、又 別の美しさがあります

 千古の昔 西行法師は その白山桜に魅せられ 吉野の奥に庵をむすんで 三年過ごしたと言われております

 本居宣長公の歌に“敷島の 大和魂(ごころ)を人といわば 朝日に匂う 山桜かな”とうたっております

 私が母種樹にきめている桜から さくらんぼを ブルーシートをしいて自然におちたのを拾い集め育てた 山桜の苗 茨城の地で 二宮尊徳公ゆかりの地で 花咲く成長した桜を おもう時 何か ほほがゆるみます
 一年でも早く きれいな花咲く桜に成長してくれます様 祈念します

 皆様によろしくお伝えください
 広沢様 寒さきびしき折 呉々も ご自愛下さいます様・・・・


▲吉野白山桜の御神木といわれている大桜木
(周囲2m余)
実生桜木を育てる紺谷与三一氏


▲吉野白山桜樹林



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よみがえる金次郎【弐拾】~【弐拾壱】 への1件のコメント

  1. 北岡正敏 より:

    大変参考になりました。二宮尊徳の偉大さを科学的管理法の技術者という立場から研究をしております。すでに報告書レベルにまとめていますが、何度も書き直しております。青木村の堰について現地調査をしておりませんが、今年中には現地を見学させていただきます。そのためには舘野様の紹介内容は勉強になってります。尊徳全集22巻と36巻を読み返して勉強させていただいております。ただわからないのは尊徳の指導した技術者集団の構成です。わかりましたら教えください。

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