平成16年度
「間中のささら」
前号で「ザッザカ」について触れたが、これは、黒・青・白の三頭の獅子が境内で、竹製の「ささら」をこする際に出る音から「ザッザカ」と言われるようになったと伝えられる。
また、古老の話によれば、昔は「間中に婿に行くと獅子頭をかぶせられて大変だから、婿に行くな」と言われるほど、若い衆は「ささら舞」の猛練習をさせられたそうである。
「風祭り」の日、獅子宿である古室家に集まった村人は、「宍戸四郎殿御免」ののぼりを先頭に「四方固役」「太夫」「獅子」その後に村人から近所の見物の人々が続き、「太夫」の吹く笛につれて街道下りから宮上りと、長い行列は間中神社の坂道を登るのであった。
そして神社では、「進み来てこれのお堂を眺むれば金の柱に銀の羽目板」と、獅子唄につれ、「ささら」が奉納されるのである。
ちなみに「宍戸四郎」とは、宍戸の守護地頭で、この地方の治安風俗などの取り締まり権を鎌倉幕府から与えられていたそうである。
▲間中の「ささら」
(平成16年4月発行)
人物編「大和田義一」
間中神社参道東の坂道を登った高台に、長屋門の旧家が見える。その門前には碑が建立されており、茨大教授「塚本勝義」の撰文で当時の国務大臣「赤城宗徳」の書による「大和田義一」の略歴が記されていた。
それには、昭和三十四年の藍綬褒章・厚生大臣賞等が記され、昭和四十五年には多年にわたる地方自治の功績で内閣総理大臣賞にも輝くほどであった。
そもそも、大和田家は「藤原主馬之輔」以来の旧家で義一の祖父・藤馬は、板垣退助の自由民権思想に共鳴、仙波兵庫と共に自由党茨城支部結成に委員として名を連ねた。
この祖父の血を引いた義一は、早くから政治を志し、戦後は北那珂村の公選村長、三十年には、合併岩瀬町の初代町長に就任し、三期十二年の間に新庁舎や国保病院等を建設し、その後は県議会議員を二期務め、衰退のきざしの見えた農業の発展に精力を傾けたと言われている。
(平成16年5月発行)
「馬頭観世音堂から大神台遺跡へ」
間中集落に、地蔵堂があったと伝えられており、そこへの坂道を東へと進むと、観音堂へ行く細道がある。
それをさらに北へ進むと、台地の森の中に二間四面のお堂があり、馬頭観世音が祭られていた。
この観音堂の祭礼は、一月十八日といわれ、当家が用意した餅をいただきながらお参りしたと言われている。
この山奥には、加波山奥之院に祭られている「荒沢不動尊」の碑が建てられているそうだ。
間中から平沢へ行く途中に、大神台遺跡の標柱があり、脇の案内板に「埋蔵文化財包蔵地大神駅家比定地」と記されてあった。
常陸風土記によると「新治の郡東は那珂の郡の堺なる大き山、南は白壁の郡、西は毛野川、北は下野と常陸と二つの国の境にして、即ち波太の岡なり」、と岩瀬北部の山脈を伝えている。
案内板にも「風土記」の伝えとして新治郡に大神駅家が在り、この付近に大蛇が多くいるので「大神駅家」としたと、この高峯台地一帯を駅家比定地としているが、昔は蛇を夜刀の神とも呼んでいた。
▲間中「観音堂」
(平成16年6月発行)
「北部土地改良区碑から十一面観世音堂へ」
亀岡の東に当たる「福崎」は、県道沿いの集落で、南には桜川まで広い水田が連なり、それを見下ろす地形に家々が並ぶ。
その西からの集落入り口は、旧道と新道とのY字路になった三角地点に、岩瀬北部土地改良記念の碑が建立されてあった。
その祈念碑には、当時の県知事の書で「桜川の源に美田を拓く」と刻まれ、その下に桜川・布川・大沢川の改修工事と、町道の改修工事を重ねた水田の基盤整備事業を昭和五十二年に計画、総工事費三十一億九千万円の巨費を投じて現在の美田が完成した旨の、努力の跡が記されている。
祈念碑からすぐ東の旧道沿いに、「西国二十二番」と記された十一面観音堂が、林の中に祭られてあった。
この観音堂は、すぐ北側の堂林むの家号で呼ばれる石塚家支配で、月山寺二十八世の神社が残されていると伝えられている。
この石塚家は、県文化財審議委員の一色文彦氏が墓地調査したところ、常北町は「石塚城主の末裔ではないか」、と語られたとのことである。
(平成16年7月発行)
「十一面観音堂から鹿島神社へ」
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観音堂から東へ歩くと、高台に大きな屋敷の石塚家がある。
士族門とも言われる四ツ足門をくぐると、植え込みと大きな石を配した広い庭。さらに、大谷石造りの石倉と大きな家や作業納屋など、豪農の佇まいを今に残している。
門脇には、植木に隠れるように大きな石碑が建てられており、そこには、「石塚家由緒之碑」と記され、文永八年九月十五日没の石塚越後守義長を先祖として、江戸期に庄屋役を勤めた三右エ門重任から信義代までの家系が刻まれていた。
石塚家東側山中の碑文には、「主人正・義次が福崎に香島香取の神を祭る」と記されている。
また、「岩瀬町史」には、「延享年中に名主幸右工門四壁山にタケミカヅチノミコトを祭神として鹿高社を祭り、集落の神饌田で栽培された米で甘酒を作り、祝いす」と記されていた。
鎮守社は、急な坂道を登った樹林の中に集落を見下ろすが如く、静かに鎮座する。
そして、現在も、秋祭りは「甘酒振る舞い」が続けられている。
▲福崎鹿島神社
(平成16年8月発行)
「智光院阿弥陀堂」
香取神社の西隣りに、阿弥陀堂が建てられており、その前には「照す一隅」と大書された碑が建立され、東の神社側には幾つの古い石碑が並び祭られていた。
集落の古老の話によれば、終戦後の乱れた時代に御本尊仏の如来像が盗まれた。
地元でも、しばらくはそのことに気付かなかったが、阿弥陀如来の後背に「常州亀岡村阿弥陀寺」の文字が記されていたため、無事に戻り、月山寺から古い台座をゆずり受けて安置した。
現在は、例年七月十四日を縁日と定め、地区の老人会によって管理されている。
明治十一年の連合戸長制の時代、阿弥陀堂前に「戸長役場」が設置され、初代の官選戸長に、南飯田の安連合三郎が任命された。
(平成16年10月発行)
「義民太郎左衛門の萩原家」
亀岡集落は精進橋の北、道路西側の大きな屋敷が萩原家で、南から邸内へ入ると「亀岡小学校跡地明治六年九月萩原五郎左衛門」と記された標柱が建てられていた。
伝えによれば、萩原家の離れに鈴木義彦を教師として「北部地区小学校」が開校されていたそうである。
この萩原家は、寛延二年の「山外部百姓一揆」のとき、三十か村の農民一千人近くを引き連れ、笠間城下まで実らぬ稲を高く揚へげて、年貢の軽減を訴えたので
あった。
しかし、首謀者として磯部清太夫・太郎左衛門が死罪獄門。
藤井佐太郎が死罪。清太夫・太郎左衛門の両家は所払いとなったそうである。
翌る三年二月二日、処刑された獄門二名の首は、並木の大石にさらされ、「枕石」と後世に伝えられている。
当時幼かった太郎左衛門の息子・卯之助は、大泉の萩原家に引き取られた。その後、亀岡の屋敷に戻り現在に至る。
小塩地内には、三人を供養する「義民地蔵」の碑がある。
また西小塙・上地区には、三義民を称えたと思われる「けら踊り」が、唄と共に現世に伝えられている。
(平成16年11月発行)
「大岡地区を歩く」
岩瀬町大岡村は、笠間藩山外三万石の中央に位置していたためか、富谷村の千五十七石の検地石高に対して僅か五十六石という小面積の集落であったが、藩の治政を預かる代官所が置かれていた。
この代官所を通じて藩庁の通達が各名主を経て地区民に伝達されるのは現在と同じだが、当時の役人や名主は、現在の公務員や区長に比べて相当の権限があったらしい。
代々藩医を務めていたという原さんの屋敷が代官所のあった所と伝えられるが、山外四十二ケ村の年貢米は、藩の武士役人の俸給や徳川将軍家への献上米とされていたらしい。
原家の近くには多くの古墳があり、往還脇の古墳には町教育委員会による「大岡古墳群」の標柱が建てられている。
この古墳群の奥、谷津田東の山道を登ると「富士権現」が祭られ、夏にはささやかな祭礼が行われていた。
最後の代官役人と言われる原家は、原様とも言われるが、ここから西へ歩くと、集落鎮守の香取神社が急斜面を登ったところに祭られていた。
(平成16年12月発行)
「代官屋敷跡から稲荷神社へ」
昭和三十年に発刊された福島護氏の「三那珂沿革誌」には、福島氏が古老に聴いた話として、「代官所には高い見物台があり、何か御用の時に役人がそこに上がって村の定使いを呼ぶと、東西南北の各地区の村役人に伝達される」ようになっていた。
江戸時代のある時期には、侯猪太郎という片目の役人がいて、「役所の一丁手前からは馬に乗ってはいけない。くわえ煙草はいけない。夜は無提灯で歩いてはいけない。頬かぶりや着物の尻ぱしょりはいけない」等、右の五か条を守って代官役宅前を往来するように申し付け、農民には粗衣粗食を強制して、「米の飯や餅は盆と正月の三日間しか食べてはいけない」と、布令を出したといわれ、「鬼か蛇か一つ眼の化物が大岡をさばるかにまた猪太郎」と狂歌が唄われたと記されてあった。
この代官屋敷の西にある大岡他の脇の山肌には、五輪堂稲荷神社が祭られ、背後には、古い五輪石塔が二基、ひっそりと置かれている。
七月二十五日の祭礼には地区をあげてのお祭りがされている。
(平成17年1月発行)
「富士見百景 富谷山」
関東の「富士見百景」として、我が岩瀬の「富谷山ふれあい公園」が平成十六年九月に認定された。
富士見百景は、長野・山梨を含む関東中部一都八県からの霊峰富士の眺望と、付近の景観の最も美しい場所として、国土交通省によって選定された。
ふるさと岩瀬の「富谷山ふれあい公園」が認められたことは、町民として本当にうれしい限りである。
岩瀬市街には、富士見台の地名も付けられている。元岩瀬地区から富谷地区にかけての富士は、美しいその姿を冬の時期は毎朝のよう見せてくれる。
思いを遥か昔にさかのぼれば、富谷山にまつわる伝説の美女・天音姫も富谷山から美しい富士を拝しては、都に上がる途中にも、富谷山から見た小さな富士が広大な裾野で天高くそびえているのは、さぞや感動の面持ちで眺めながら歩いたであろうと思われる。
さて、十一面観音を祭る富谷観音は、勅令で天音姫鎮魂のために、奈良時代の高僧・行基が創建したと伝えられている。
(平成17年2月発行)
「二十三夜堂とジンベイ地蔵」
南飯田集落の中央交差点は、北へ進むと門毛地区を経て真岡方面へと進む街道で、東西に走るのは、富谷稲田線である。
この交差点の西側に小さなお堂があって、中央には石の二十三夜様が祭られ、お堂の回りにも「二十三夜」と記された碑が多く配されていた。
古老の話によると、昔は二十三夜にお参りすると沢山のお金が貯まるといわれ、正月の二十三夜祭には道路脇に市が並び、講中の人々によって通行人にも甘酒が振る舞われ、大層な賑わいであったと伝えられている。
また、二十三夜堂の側には「ジンベイ様」といわれるお堂があって、ジンベイ地蔵が祭られていたらしい。
伝えによれば明治のころ、東京の人が飛ばした大きな風船が落下した場所で、ジンベイという人がそこにお堂を建て、地蔵様を祭ったそうだ。
しかし、現在はお堂も地蔵様もその場所に無いが、古老の話によると、お地蔵様は、門毛地区の古寺に祭られているそうである。
(平成17年3月発行)
古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」