いわせものがたり(平成6年度)

平成6年度

「北栗山」

 犬田集落の中央に小高い山がある。北栗山といって山頂から眺める岩瀬市街の夜景は、実にすばらしいといわれる所だ。
 この頂には、岩瀬町の第二次世界大戦の戦没者を悼んだ大きな「殉国の碑」という慰霊塔があり、時の茨城県知事、友末洋治氏の筆で昭和三十二年七月に建立されたものである。
 周囲は子供たちの運動公園になっており、昔、岩瀬町の青年研修所であった建物は、現在は犬田地区の公民館と改めていた。
 この建物の南側は、町営水道の西部地区排水場の施設であり、この施設の北側と東側には、岩瀬町の文化人先輩が詠んだ歌碑句碑が、ひっそりと建てられている。
 そして、美しい筑波山が雄大な正面に望める南山麓の北栗山墓地近くは、昔狐の嫁入りがしばしば行われたといわれる崖塚があり、夜は見事なちょうちんの行列が遠くからも眺められたと古老は語る。
 その灯りの消えた場所に昼間行って、いくら探しても穴も何も見当たらなかったといわれ、「犬田七不思議」のひとつに数えられている。

(平成6年4月発行)


「加波山事件 自由民権のさきがけ」

 明治七年、板垣退助と後藤象二郎が政府に提出した「民選議員設立建白書」以来、全国的に自由民権運動が盛んになった。
 わが岩瀬町は、犬田集落の仙波兵庫と元下館藩士族であった富松正安らが結成した民風社がもっとも代表的な自由民権運動過激派結社であった。
 明治十四年の日本自由党結党大会には、富松・仙波らが参加、明治十六年には、大阪より上京して来た大井慶太郎が加わり、三人で茨城県下各地で演説会を開き「圧制政府打倒」を説いてまわったのだった。
 そして、これら反政府運動者の多くはこぞって自由党に参加、当時の国家権力を支配していた薩摩藩閥政治に対抗したのだった。
 この薩摩藩閥政府体制の関東における中心的人物だったのが、福島県令を努め、自由党の撲滅に勇名を駆せて福島事件を起こし、明治十六年に栃木県令になるや「不肖三島が県令である限り自由党と強盗は絶対に許さん」と豪語して、自由民権者の弾圧にのりだした三島通康だった。
 この三島に反発して、明治十七年、彼ら自由党員は文武の研修道場の名目で下館に有為館を造った。
 館長に富松正安を選任し、天下国家を論じながらも落ち着く処は、福島・栃木両県の自由党のにくむべき敵「三島討つべし」の言葉であり、それがやがて明治十七年の加波山事件へとつながるのであった。
 
(平成6年5月発行)


「加波山事件 旗立石」

  自由民権運動が活発になればなるほど、官憲の弾圧も厳しくなり、自由党員の演説会場には常に巡査が居座り、不隠な言葉が少しでもあれば弁士に中止解散を命じ、その場から弁士を検束するのが常であった。
 明治十七年七月九日、筑波町で、自由党員の集会が自由党過激派の仙波兵庫・河野広体らを中心に開かれ、反政府活動の謀り事が巡らされた。彼らは下館の有為館を本陣として、政府転覆のため多くの爆烈弾製造も行なったのだった。
 九月二十三日の夜明け、下館分署の警官が多数で有為館に押し掛けたので、富松正安・玉水嘉一・保田駒吉・平尾八十吉・河野広体・山口守太郎・琴田岩松・草野佐久馬・五十川元吉・小針重雄・杉浦吉副・天野市太郎・三浦文次・原利八・横山信六・小林篤太郎ら十六人の壮士達は、具足箱に爆烈弾百五十発を入れて、雨の降る中を本木村の同志・勝田盛一郎の屋敷へと逃れたのだった。
 勝田は、富松から雨引山旗上げを相談されると「雨引山は人家が近く、地の理からも感心しない。むしろ加波山の方が要害の地である」と説明したのであった。
 勝田家で食事を馳走になった一行は、加波山頂へと登り本宮社務所を本陣として「一死俸国 自由の魁」と大書した旗を、大きな石の上に打ち立てたのだった。

(平成6年6月発行)


「加波山事件 長岡畷の血斗」

 標高709メートルの加波山は、古くから禅定の修験場として有名な霊山で、頂上には加波山神社が祭られている。
 さて、この山上に登った志士たちは、革命の檄文を参拝者に配ると共に、九月二十三日の夜には、真壁町屋警察署を襲い爆烈弾を投げつけた。
 署長はじめ全員が驚いて逃走し、わずか十六名の決起者を「暴徒三千、加波山に蜂起」と内務省と茨城県庁に報告したほどの慌てぶりだった。
 そして二十四日、加波山上での守備は無理との保田駒吉の発議を聞き入れ、「栃木県庁を襲撃して三島県令を討ち取ろうー」ということになり、夜になって下山した。
 一行は、長岡畷で多数の警官隊と衝突、爆烈弾を投げながらの乱戦となり、平尾八十吉は討死、他四名が負傷した。
 ようやく夜中に勝田盛一郎宅まで逃れ、酒食のもてなしを受けてから、裏道を通って犬田の山中に潜み、夜の明けるのを待った。
 二十五日、富松正安の「ここでいったん解散して、東京で再会しよう」という言葉に従い、夜の更けるのを待って思い思いに逃れて行ったが、間もなく全員が逮捕。
 彼ら志士一行は強盗罪として七名が死刑、無期刑が七名、一名は獄中で取調べ期間中に死亡という、自由の先革者としては惨めな結末を迎えたのだった。
 
(平成6年7月発行)


「加波山事件余談」

 万延元年、犬田集落の郷士の家に生まれた仙波兵庫は、少年時代から各地に学び、いつしか板垣退助提唱の自由民権論に感動、早くも明治十二年には、十八歳の若さで法蔵院にあった岩瀬小学校で、政談演説会を行うほどの秀才だったといわれている。
 明治十三年、兵庫は自由民権思想復及の学習塾「研光社」を自宅に創立、学ぶ者は八十余名と盛況ぶりだったと伝えられている。
 明治十四年には、茨城県自由党が結成され、岩瀬地方の参加者は犬田村の仙波兵庫、間中村の大和田東馬、西飯岡村の鈴木藤一郎などであったといわれている。
 あくる明治十五年、西茨城郡自由党支部が結成、規則の第一条には「我が党は、自由を保全し権利を拡張し幸福を増進し社会の改良を企図すべし」とうたい、西郡代議員として仙波兵庫が選ばれた。
 これら自由党員の中でも急進派といわれた、仙波兵庫が中心となって明治十七年七月九日の筑波町での集会で、会長に推された兵庫は「来年は我等を軸に一大活劇を演出しよう」と語り、政府転覆の決意を述べているのだったが、加波山事件発生の時は上京していて参加出来ず、知らせを聞いて帰郷の途中に逮捕された。

(平成6年8月発行)


「ぼやり橋」

 真壁街道(現在の県道・筑波益子線)沿いで犬田集落の片蓋地区に、現在は一面田んぼで、川らしい川も橋もないが、「ぼやり橋」という名称だけが伝えられている。
 今から六百余年も昔、京都の天皇側と吉野の天皇側が争い戦っていた南北朝時代、小田五郎という武将と小山若犬丸という武将が南朝側に味方して、岩間の難台山に城を築いて奮戦し、北朝側の足利氏満の大軍を対えて一年近くも頑張り続けたが、ついに落城してしまい城に火を放ち討死を覚悟した。
 しかし、奥方の鶴代の方が小田五郎の子を身ごもっていたので、どうにかしてお腹の子だけは助けたいと、共に死ぬという鶴代の方をなだめた。
 そして、わずかの従者と共に山また山の間道を西に関城へと落ちていった。さの途中、犬田村の小さな橋に差しかかった。
 するとその時、橋から水面にかけて無数のぼやりと光るものがあった。
 一方、鶴代の方主従一行のともした松明の灯りが川面をぼやりと照らした。このようなことから後に里人は、この橋をぼやり橋と呼ぶようになったと伝えられている。
 また、一説には鶴代の方一行がこの橋まで辿りついた時、西の空か有明の茜色に染まってきたので、有明橋とも言われている。
 
(平成6年9月発行)


「おかんぶくぶくの池」

 むかし、犬田の在所におかんという美しい娘がいた。あまり遠くない処の、名のある旧家に女中として奉公していたが、そこに仕えていた郎党にひそかに想いを寄せるようになった。
 しかし、その男には既に妻も子もあり、とても胸の中など明かす術もなく、食も細る思いであった。
 苦しい胸の中を深く隠して、お盆の里帰りを願い出し、家に帰ってはみたものの心の切なさは募るばかり。一度でいいから愛されたい、あの胸に抱きしめられたいと狂おしいまでに乱れるばかり。
 そして、この胸の中を打ち明けられず、あの人と毎日顔を合わせるよりはなどと考え、三十日盆の闇夜を照す蛍の明りに誘われて、いっそあの人の好きな蛍になってお側近くへ……と、袂一杯に小石を拾い、南無阿弥陀佛の声と共に、満々と水を湛えた近くの池へ「ザブン」とばかりに身を沈めた。
 朝になっても帰らぬおかんを手分けして捜したが、池のほとりにおかんの履物を見付け、なんでこんなことをしたのだと泣きながら、おかんおかんと叫ぶと水面からぶくぶくと泡が立ち、おかんと呼ぶと水面からぶくぶくと答えたところから、いつしか「おかんぶくぶくの池」と呼ばれるようになった。
 この池は、今も片蓋地区に静かな姿を見せている。
 
(平成6年10月発行)


「狢愚痴」

 むかし、犬田という集落に悪い病気が流行して、村の多くの人々が困りはてていた。
 そこで通り掛かった修行中の旅の行者に占ってもらったところ、行者は、何やらぶつぶつと言いながら占っていたが、やがて村の衆に向かって「この山深くに住んでいる狢が出て来ては、病気を撒き散らしている。この格を退治すればすべてが良くなるに違いない。」と言うのだった。
 それから村中で山奥の狢の穴を探して三日三晩火を焚いて穴をいぶしたが、どうしても狢が出てこない。
 そこで今度は、榧の木を燃やしてみたところ、あまりの臭さにぞろぞろ出て来た狢を、それっーとばかりに、皆殺しにしてしまった。
 その時、親狢が息も絶え絶えに言うのには、「牛や馬や犬猫は人間に大事に育てられているのに、何も人様に悪さをしたことのない我々狢だけが、なぜこんなひどい目にあわなければならないんだ。病を広めたなどとんでもない。あれは、街道筋の無縁仏が浮かばれずにいるからだ」と、涙を流しながら死んでしまった。
 それから村では、無縁仏と狢の供養をしたところ、病気はすっかりなくなり、狢が愚痴をこぼしたその場所は、いつしか「狢愚痴」と呼ばれるようになった。
 この話は、犬田七不思議として、今でも語りつがれている。
 
(平成6年11月発行)


「犬田の風穴・橋本の風穴」

 むかし、犬田山の中程に狐の穴かと思われる穴があった。
 人がうずくまって這入れるほどの大きさで、穴の奥はどこまで続くかわからないほど深く、絶えず冷たい風が吹き出している不思議な穴だった。
 しかし、明治の末のころの台風で、山崩れが起き、この穴が埋まってしまったため、「犬田七不思議の根拠がなくなってしまった」と土地の古老は、非常に残念がっていた。
 一方、犬田の山と境を接する上城の山には城跡があり、橋本城の見張台と思われる、山頂の塚の西斜面にも古い穴があり、「だんだん山の風穴」といわれていた。
 犬田の風穴と同じように、絶えず風が吹き抜けていたため、「ごおん、ごおん」とも呼ばれていた。
 昔話によれば、守備兵が橋本城から逃げるために、掘ったずい道が、犬田の風穴に通じているのではないか、と聞かされた。
 昭和十八年頃、まだ学生だった東友部の萩原義照さんと、西友部の田山純一さんが、橋本城調査の折に調べようと思ったが、穴の入口はーメートル近くあったものの、中はすでに埋没していた。
 私も子供のころ、穴の不思議を見て知っていたので、橋本城落城とトンネル話を空想した先人のロマンに感心してしまった。
 
(平成6年12月発行)


「姥ケ石」

 むかし、犬田の街道近くに、一人暮らしの女がいた。数年前に亭主を亡くし、先年には一人息子を亡くしてしまい、今は何を生きがいにと嘆き悲しんでいた。
 ある日、表の通に赤子の泣く声がして、最初はふけ猫かと思ったが、あまり長く泣くので変だと思い表に出てみると、誰が捨てて行ったのか、かわいい男の子が手足を力なく動かして、泣いているではありませんか。
 「おお、かわいそうに!」と、後家婆さんが抱き上げると、ホツとしたのか、すぐに泣きやみ、すがり付くような仕ぐさをするので、「おお、かわいやの!」と婆さんは家に抱き帰り、かわいやかわいやと大切に育てたため、いつしか「カイヤ」とよばれるようになった。
 カイヤ少年は成長するにつれ、ますますかわいらしくなり、評判の親孝行息子に育った。
 野良仕事で婆さんが疲れるだろうと言って、一緒に仕事を手伝い、肩や腰をもんであげたりして、母の笑顔を見ては自分も喜んでいた。
 しかし、カイヤが十三歳の時に、ふとした病気で母は帰らぬ人になってしまった。
 カイヤは嘆き悲しんだ。それから間もなく、「母さんが寂しがっている」と人に語り、婆さんの墓の前で冷たくなっているカイヤ少年が発見された。
 その後、山に婆さんとカイヤ少年の抱き合っている姿そっくりの石を、村の人が見付け、村中みんなで供養し、姥ケ石と呼ばれるようになった。
 
(平成7年2月発行)


「醒ケ井」

 雨引集落と犬田の境に、犬田丸山といわれる大きな円墳を思わせる山がある。
 この丸山の西麓、真壁街道から少し斜面を登ったところに、泉がこんこんと湧き出る「醒ケ井」と呼ばれる場所があった。
 一説には、親鸞上人の慈光により発見されたといわれる名泉で、流れ出る清水で目を洗えば、霞む目も澄んだ瞳になり、乳の出ない母親がこの水を飲めば母乳の出が良くなり、酒の悪酔いも頭がすっきりすると言われた。
 また、この霊水をくんで帰り、初午のスミツカレを作って食べれば、一年間の災害が除けると言われ、約二十年くらい前まで、この水をもらいにくる人が続いた。
 現在は一面がやぶの中で、地面がぬかるみになっているため、「醒ケ井」の存在をわずかに知るのみであった。
 近くの石材店さんの話しによれば、昔は日本の三代醒ケ井ともいわれ、戦国持代日本国中を歩いていたと伝えられる後藤又兵衛という豪傑が、大地に槍を突き立てた場所から、清水が湧き出したとも伝えられている。
 石材店さんの若い時代には、稲荷の祠に赤い旗が何本も翻っていて、初午祭はそれは賑やかなものであったと話してくれた。

(平成7年3月発行)

古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」