いわせものがたり(平成15年度)

平成15年度

「南飯田常楽院界隈を歩く」

 南飯田集落は、元禄十六年の飯田村差出帳によると、集落の耕地は、田が二十六町五反、畑が四十二町五反、溜池二か所、堰一か所、かまど六十五、人口は三百五十一人で馬三十五頭とあった。
 現在、集落は八つの坪に分かれているが、三那珂といわれた時代は、北那加村の中心で役場や小学校、農協などがあり、また、四人の村長をはじめ多くの人材を輩出したのが南飯田集落である。
 二所神社から束へ歩くと「本宅」と呼ばれる安達家の裏門があり、四ツ足門の中には、狛犬に守られた大きな碑があり、栗田勤の碑文で「安達先生の碑」と大書されている。
 これは、弓術師範であった安達彦三郎の顕彰碑で大正七年の建立である。
 また、現在の岩瀬農協北部支所前にも北那珂村役場用地寄贈の頌徳碑として、安達彦三郎の碑と、昭和二十八年当時の茨城県知事友末洋治の碑文による富谷集落の国有林払い下げの記念碑が並んで建立されていた。
 南飯田集落には、安達家、来栖家、細谷家等が古くから住んでおり、これら旧家に囲まれるように常楽院薬師堂が祭られていた。
 
(平成15年4月発行)


「南飯田中央から篠沢地区へ」

 昔の南飯田尋常高等小学校跡地には、笠間稲荷を招請した稲荷社が祭られている。
 そこから北へ「西小塙真岡街道」を歩くと篠沢坪で、道の西側には馬頭尊が祭られ、「明治二十二年願主鈴水清兵衛」と記されていた。
 これから少し歩くと、東側には文政六年建立の二十三夜供養塔があり、「講中世話人安兵衛」並んで「光明眞言、弥陀宝号」と記された「百万遍供養塔」が建てられて「文政九年参拝講中願主安兵衛」と記されている。
 この街道から東へ歩いた台地が、有名な「篠沢古墳」で、当代で十六代も続くといわれる鈴木家の裏に、大きな前方後円墳が現存し、昔、竹の子掘りをしていた時に発見されたという「土師器」が保存されていた。
 この篠沢古墳は、町指定遺跡であり、鈴本家で大切に管理されていた。
 また、この篠沢の奥には、昭和八年当時の北那加村長、村井久三郎によって「篠ノ沢隧道」が完成、門毛地区から南飯田地区へ用水したのであった。

▲篠沢古墳   ▲馬頭尊

(平成15年5月発行)


「門毛地区へ」

 門毛とは、常陸国(茨城)の国府のあった石岡から下野国(栃木)への入り口であったところから、毛の国への門として、名が付けられたと言われている。
 中郡と言われた岩瀬の大半は、笠間領であったが、門毛集落は江戸時代には結城領であったといわれ、「代官下役」として旧家である「名主」や「組頭」が、直接村を支配していた。
 「岩瀬町史」によると、門毛村の元禄十七半の村差出帳には、釜戸二百軒とあり、古くから「日月神社」と「八幡宮」の二社があって、源太夫という神主が支配していたと記されていた。この二社が明治六年に合祀して「二所神社」となったのである。
 「日月神社」は、延暦十年「坂上田村麻呂」が戦勝祈願のため、「天照皇大神」「月夜見尊」を祭ったといわれている。
 また、「八幡宮」は大同四年、入野集落との境堺近くに「鎮座」後に「馬坂」に移宮したと、町史に記されてあった。
 この「二所神社」は、門毛集落センターの東にあり、石鳥居をくぐって石段を二度登ってゆくと、杉や椎の古木に囲まれた拝殿がある。

▲二所神社

(平成15年6月発行)


「凍領坂界隈」

 門毛地区から茂木町深沢地区へ通じる山越えの坂道を、「凍り坂」といい、この途中に、「是より、北山頂門毛城跡」の標柱がある。
 「前根城」ともいわれる「門毛城」は、戦国時代に築かれた砦で、現在も山の城館跡に、戦国時代の乱世が偲ばれる。
 「東軍記」には、田野城の「羽石軍」と、久下田城の「水谷軍」との合戦の折に、当地の人と思われる「吉田周防守」の名が、記されてあった。
 この標柱から更に進むと、道路左側の山林に、薬師堂の桜門が見えてくる。
 参道脇の碑を見ながら石段を登ると、桜門の中にたくましい「仁王様」が祭られているのが見える。
 桜門には、毎正月、地区の人々によって作られる大きな注連縄が飾られてあり、その中心部には、「しきびの茎葉」が、房として吊されている。
 この桜門から石段を上がると、「奉修薬師如来開廟世界平和」と書かれた、大きな「木碑」がある。
 その奥に、眼病に霊験があるといわれる「薬師如来」を祭る本堂がある。
 この「薬師様」は、六十二年毎に御開帳されるそうだ。
 この近くには、昔「長徳寺」という大きな寺があり、山中には「多田満仲」の石塔があると伝えられている。

▲薬師堂「桜門」

(平成15年7月発行)


「凍り坂界隈 長徳寺」

 「岩瀬町史」によると、「凍坂山阿弥陀院長徳寺」は、長徳四年(998)多田満仲の末子・常陸介大禄益仲の創建と記されている。
 「長徳寺」は、凍り坂の北の台地梅林の脇にひっそりと建っている。
 参道の側には、「如意輪観音」の石仏が下に広がる水田を、優しく見つめるように祭られている。
 また、かたわらには「元禄九年一千日惣廻向」と記された石碑がある。

▲如意輪観音石仏

 昔は、現在の梅林のある平地に「長徳寺」の本堂があったと言い伝えられており、現在のお堂は雑物を入れる建物で、古くは十五坊もの寺があり、寛永七年の検地の折に、衆徒は残らず百姓になったといわれている。
 お堂の前や背後の山坂には、寺ゆかりの古い墓石が数多く残されている。
 多田益仲は、嵯峨天皇の時代に「源氏」の姓を帝より賜わり、「多田」姓より「源」姓を称した。
 多田満仲の子孫には、八幡太郎義家や源頼朝など多くの武人がおり、日本の歴史の表舞台で活躍した。
 「長徳寺」近くの「薬師堂」境内には、山深き所より移された多田満仲の供養塔が祭られている。

▲多田満仲の供養搭

(平成15年8月発行)


「雨巻山の不思議(怪)」

 「常陸国風土記」には、「新治郡の記」に「北は下野と常陸の国の境に大きな山、波大の岡なり」と、岩瀬北部の山脈を伝えている。
 東から竜神山・雨巻山・富谷山と、岩瀬盆地の背後に美しい姿でそびえている。
 竜神・雨巻の峰に黒雲が湧き、その雲が東へ向かえば笠間方面へ、西へ回れば富谷山から青柳の御嶽の峰へ、逃げる間もなく、稲光と共に篠突く雨を集落に降らせるのであった。
 この雨巻山には、古くから「竜神伝説」が伝えられている。
 時代は慶長の初め、真壁「伝正寺」の住僧「禅応和尚」に、百日余りも続く日照りに困った農民から、雨乞いの願いがあった。
 和尚が雨巻山に登って、三日三晩一心に折り続けたところ、その祈りが天に届き、雨が二昼夜にわたって降り続き、その年の秋は豊かな実りに恵まれたのであった。
 ある夜、和尚の夢枕に男竜と女竜が現れて、「明朝、昇天するので引導をお願いしたい」、と言って姿を消した。
 和尚が雨巻山に急ぎお経を唱えると、竜の夫婦は、和尚の前に深々と頭を下げて昇天した、と伝えられている。

▲雨巻山

(平成15年9月発行)


「龍谷山洞源寺」

 門毛・入野地区には、奥深くひっそりと建立されている寺院がある。
 参道は急な坂道で、途中の桜の樹の下には、「曹洞宗龍谷山洞源寺」と記された大きな碑があった。
 真壁・伝正寺の末寺として、文末六年に創建された「洞源寺」である。
 背後には、石門と百観世音塔の碑があり、椎の木や桜の大樹がそびえ、その下には地蔵尊や供養碑が立ち並び、山門の前には永平七十六世慧玉書として「不許葷酒入山門」と、碑に刻まれていた。総本山である永平寺住職の書と言われている。
 この左脇にも、古い時代に記された「不許葷酒入山門」の碑がある。
 現在二十一世目と言われる住職の「蓮実氏」は、「酒を飲んでは山門内に入ることはできないが、山門内で飲むのは許されるかも・・・・」と、笑いながら語るのであった。
 「浅野長政」が真壁城主であった慶長三年、伝正寺住職「禅応和尚」が雨巻山の竜に法名を与え、大竜王として神に祭った「竜神堂」が本堂前にある。
 また、扁額のかかる本堂のご本尊は、「釈迦如来」と「文殊菩薩」であると言われている。

▲洞源寺

(平成15年10月発行)


「門毛山済雲寺観音堂」

 戦国時代、門毛城主・阿保遠江守は、「吉田周防守」を養子として城主に迎えたと伝えられており、その末えいである吉田家は、江戸時代に「名主」を務めた旧家で、今も古い家構えが当時の名残を留めている。
 地区内では、「本宅」の呼称で知られており、門近くの桜は、「洞源寺の桜」、前根「吉田家の桜」と並んで、門毛の「三姉妹しだれ桜」と言われている。
 また、吉田家には、観音堂が新築されており、御本尊として「聖観音」が祭られている。
 伝えによれば、吉田家出身の「海野鳳林」が江戸・浅草の浅草院住職と成った折りに、寺の聖観音像を「門毛・済雲寺」に移したそうである。
 「済雲寺」は、後に廃寺となり、福島県・白河の寺院に観音像が移された。それ以来、吉田家に不吉なことが続き、帰りたいと夢枕に現れたので、観音堂を建てお迎えしたそうである。
 この観音堂のそばには、「虚空蔵菩薩」を祭るお堂と、吉田家の先祖と伝えられる「法印」の墓石があり、上部の峰は昔の砦の跡と言われている。

▲観音堂 

(平成15年11月発行)


「門毛金場地区を歩く」

 門毛地区の栃木県界を「金場」といい、この地区の東山麓には、金採掘の廃鉱跡が残っている。
 そこには杉と桧が繁り、谷沿いにはおおきな洞穴から清水が流れ、棚田の間を小川として流れ大川に合流している。
 「金場」の地名は、江戸時代、水野氏によって金の採掘が行われたことが由来となっているようだ。
 昭和初期には、鉱石をカマスに入れて羽黒駅から日立駅まで運んでいたらしい。
 さて、現在の門毛採石場近くには酪農を営む中田家がある。
 当主の話によれば、住宅を新築した折りに裏山を整地したところ、地底から土・石器や瓶棺・竜骨の形をした根太や武器の形をした木造品の古根など、数多くの古代遺物が出土したそうだ。
 門毛の「竜神伝説」や「経塚」の地名の因縁等に思いを馳せると、古代への夢が膨らむばかりである……。

(平成15年12月発行)


「化粧坂から阿弥陀堂へ」

 門毛・前根地区から関場地区へ向う街道の台地に「神明」と「笠掛け」の地名が残っており、ここは、集落の人々に忘れられている伝説がある。
 昔、土地の神明様が坂に腰を下ろして、笠を近くの立木に掛けて鏡戸山(益子町との境の山)に、自分の姿を映してお化粧をしたので、この坂を「化粧板」と呼ぶようになったという話である。
 関所があったと言われている関場地区には、平成五年に再建された「阿弥陀如来堂」があり、このそばには、再建の記念碑や「天明七丁末当村セキバ男女七十人十月二十九日と十九夜供養塔」と「同行施主四十七人」と
記された観世音供養塔など、多くの碑が建てられている。「天明の大雨」で、遭難した人々への慰霊牌と思われる。
 お堂が、今よりも高い所に建てられていた時に、仏像が盗難に遭い、しばらくは無仏の時代があった。
 再建後は「如来様」が祭られ、地区の人々によって管理されている。

(平成16年2月発行)


「間中神社」

 南飯田地区から北東へ歩くと、間中地区である。この地区は、「雨巻山」と「竜神山」の裾に広がり、古くは「間中村」と言われていた。
 伝えによれば、安土桃山時代は慶長のころ、「藤原主馬之輔」が、一族郎党である「仲見川」「大貫」「古室」氏等と共に、この地に土着。
 主馬之輔は、藤原の姓を大和田と改めて開拓の鍬を下ろして以来四百年、現在に至るといわれている。
 また、間中神社もこのころ祭られたといわれている。
 間中集落の中ほどより、桧林に囲まれた坂道を登ると、「間中神社」の社が見えてくる。途中には古墳群があり、標柱が立てられている。
 この神社の祭神は、「大日霊貴命 オオヒルメノムチノミコト」と伝えられており、「天照大神」が祭られているそうである。
 ややこう配になっている境内では、毎年「ザッザカ踊り」といわれる「ささら舞」が奉納されていた。
 社の東には、「御大典記念間中神社本殿造営記念」の碑が建てられてあり、その上の山林には、幾つかの古墳らしい塚が望見される。

▲間中神社

(平成16年3月発行)

古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」