いわせものがたり(平成7年度)

平成7年度

「岩瀬駅前常盤町通り」

 岩瀬駅前を東西に伸びる古い街並みを犬田地区常盤町という。
 この水戸線岩瀬駅周辺は随分と歴史が古く、鉄道開通と共に駅舎が建てられたものと思われ、岩瀬駅正面西側には「水戸線岩瀬駅開業百周年記念。平成元年一月十六日」と記された記念碑が建立されている。
 この岩瀬駅前には常陽銀行岩瀬支店があり、以前は古いたたずまいを見せる重々しい感じの建物だったが、今は近代化された明るい銀行の姿となり、古い時代からの岩瀬町の発展を金融面から見つめていたものと思われる。
 この常盤町通りを西へ行くと、明治、大正、昭和と長きにわたって唯一の娯楽施設の芝居劇場として、多くの観客に紅涙をしぼらせた「豊盛座」のあった場所である。
 現在は岡田タクシーの車庫になっている。
 この狭く古い宿場通りを西の真壁街道近くに向かって歩くと鉄道の方へ折れる道があり、そこに大きな碑銘石のある家が目にとまる。
 一丈余りの黒い石には「日置流雪荷派三原義彦先生碑」と大書きされ、裏面には太田雪應を始めとして、指導を受けた多くの人々の名前が記されていた。
 この場所は、明治時代のころ、弓の練習場であった矢場跡があった所で、弓道の指導をしていた三原氏の徳をしのんで、門下生が建立した碑だと伝えられている。
 
(平成7年4月発行)


「岩瀬東区=本新田村」

 岩瀬駅は犬田地内にあるが、その前に広がる市街地は「東区」として、現在の岩瀬町の中心地になっている。
 江戸時代の笠間藩領だった時代には、本新田村といわれ、文化年間の人別調べ(戸籍調査)によれば、わずか百名余りの小集落であったにもかかわらず、結城街道と日光街道が交差する重要な人馬の継場になっていた。
 さて「本新田村役人伝馬」によれば、公用の人馬の用達を命じられていたが、村が疲弊を理由に藩庁に願い出て、藩は岩瀬村(現在の元岩瀬)西新田村・犬田村・青柳村の四カ村にするように命じたということだった。
 時は移り、明治十一年岩瀬村・西新田村が合併して岩瀬村となり、水戸線岩瀬駅が現在地にできると、交通の要衝にあった岩瀬は急速に発展し、その後、本新田村・西新田村が合併して、東区・西区となり、古い岩瀬村は「元岩瀬」と呼ばれるようになった。
 大正十四年、西那珂村が岩瀬町となるや必然的に町の中心地となり、昭和三十年に三那珂地区が合併して岩瀬町になってからは、役場や公民館を軸として発展。
 新しい国道50号沿いには、みかげ石の町にふさわしく多くの石彫群を配し、近くには大型店も進出して、新しい都市への未来像を抱きながら、町づくりの基礎固めに入っているところである。
 
(平成7年5月発行)


「あさひ町 ぶらり歩き」

    
 昔の結城街道は、本新田から西新田を通っていた。
 本新田は現在は東区といわれ、そのうち駅前から西を旭町といっていた。
 旭町の東側に古くからある写真館と酒屋の間を南へのびるー本の道、この道が御嶽山から雨引観音へと通じるふれあいの道の入口であり、毎朝御嶽山登出会の人々が参拝に登るといわれている。
 旭町の町を西へ歩くと、北側に古くからの歯科医院の庭に、見事な枝振りの松に寄り添われるように建つ大きな黒い碑は、常盤町の三原氏の門跡を継いで山王神社境内に矢場をつくり、多くの門弟に日置流の弓術指導をした太田雪應の顕彰碑を弟子一同が建立したものといわれている。
 そこからまた西へ少し歩くと、道路南側に古い倉庫が見えてくる。
 それが「岩瀬農協駅前支所」である。岩瀬産業組合から農業会、それから農協へと長い歴史を共に歩んだ大金庫が、今も支所事務所に大切に保管されている。
 現在の岩瀬町農業協同組合は、昭和四十三年に東那珂農協と北那珂農協が、岩瀬農協と大同団結して発足したもので、合併前から旧岩瀬地区の組合長だった利根川清太郎氏が、昭和六十二年まで組合長を努め、大きな体で清ちゃん組合長として親しまれた。
 
(平成7年6月発行)


「山王神社」

 旭町(東区一)の中程に、北に延びる狭い参道がある。この道が百メートルくらい続き、やがて石の鳥居と本の鳥居が立ち並ぶ神社に至る。
 この社は、昔「本新田神社」と呼ばれていたが、現在は「山王神社」と呼ばれ、祭神は大山昨命と山王権現といわれている。
 敷石の両側に狛犬、そして正面が山王神社拝殿、西側の小屋は御輿を納めてある倉庫、東には稲荷社の祠があり、その東には二十三夜尊を祭る大きな堂がある。この三夜様は二言のお願いが叶うといわれている。
 また神社境内には杉や桜の大樹と共に大きな銀杏の木が空高くそびえ立ち、木陰には子供たちの遊具がいくつか造られていて、天気のよい日は近くの子供たちの遊び場となっている。
 そして町の夏祭りには、岩瀬駅前通りを何台もの御輿が練り歩くが、子供会用の御輿と山車しかないので、現在、有志が集まって「御輿会」を結成し、「旭町に大人の御輿を」との運動を始めた。
 しかし、年々担ぎ手が少なくなっている現在、借物でないお神輿をといっても、なかなか笛吹けど踊らずの感があると、町内の古老は語るのだった。

(平成7年7月発行)


「磯田屋と桜井安之助」

 山王神社の西側に、駅前通りへと通じる狭い道がゆるく曲がって伸びている。
 その南側に続く高い石垣の上には、大正時代から昭和初期にかけて町議会員・県会議員として活躍した桜井安之助氏の顕彰碑が、当時の県知事・友末洋治氏の筆で建立されている。
 明治の開化期に真壁出身の初代安之助がこの土地に米穀肥料商として、また相場師として成功、巨万の富を築いた。
 それからは、水戸線鉄道残土を利用して理土、城壁のような石垣を積み上げ、その上に鉄柵を巡らし「イソタヤゴテン」といわれるほどの豪邸を建てた。
 しかし、二代安之助は政治を目指し、世の為人の為に尽くしたが、昭和恐慌と政治資金作りのため、家屋敷も人手に移るはめになった。
 全盛時代当時の倉庫は今も健在で、岩瀬農協倉庫として十分に役目を果たしている。その大きな家は今も東部地区の、ある旧家に現存しているといわれる。
 この桜井家の土地を現在所有している物井氏の話によれば、磯田屋全盛時代は、岩瀬駅へ荷車や馬車が威勢よく街中に活気をあふれさせ、貨車で東京方面へ連日のように送られたといわれる。
 二代安之助は、政界を志したために家産を傾かせることになってしまったが、後半生は、旧岩瀬町の農業会会長として、後継者・利根川清太郎氏を育てたといわれる。
 
(平成7年8月発行)


「本町通り」

 明治二十二年に岩瀬駅が完成すると、それまでは街道筋にわずかの宿場や農家があるだけだった駅前通りがにわかに活気を呈して富田屋・新福・東明館などの旅館や飲食店、遊女屋、酒屋、魚店、雑貨、金物屋から呉服問屋などが軒を並べるようになった。
 明治三十六年には、上城集落の谷中玄一郎氏が駅前に特定郵便局を開設、昭和二年からはその権利を受けついだ「まるみ」の先々代が、局長として昭和三十年代までその職にあった。
 その後、権利を郵政省に返却、当時の局舎跡の敷地に現在の「まるみ」がある。
 さて、初代谷中玄一郎氏は、橋本城主の子孫といわれ、当時橋本集落の大半を所有する地主であったと伝えられ、二十五年にわたり局長を勤めた。
 しかし、谷中宗蔵の代に多くの事業を手掛けたり、県議会議員等の要職を勤めるなど、政治の世界にも足を踏み入れたためか昭和の初めに破産したと伝えられている。
 それでも、上城の山中にありながら、「谷中家の電話は当時岩瀬一番に入ったとか「電燈の入るのも他の集落より早かった」といわれている。
 本町は西区とは街並み続きで、昭和二年からは岩瀬・益子間の定期バスが運行し、毎年暮市やダルマ市が路上に多くの屋台を並べ、黒山の買物客でごった返したものだったが、今は昔の語り草となってしまった。
 
(平成7年9月発行)


「栄町通り」

 昔、富田屋があった場所で、現在の京扇の前を北へ向かう狭い道がある。
 この道が古くから益子街道といわれ、定期バスも運行した旧道だが「コシバラ」といわれていた頃は、しばしば火災もあったと伝えられている。
 この道が旧50号に交差する西側には、昔岩瀬小学校があったが、昭和十四年に新道が出来て、学校が寸断されたため現在の鍬田へ移転された。
 その後、昭和十六年に役場が西区から東区に移ってからは、岩瀬の中心地となり、道の北側に残された校舎は総合庁舎として普及所や土木・食糧等の事務所として使われた。
 その北側には、現在、町の中央児童公園があり、そばにはー本の大きな銀杏の木がある。
 ここは、古くから地区の墓地があった場所で、町の市街化計画によって大部分の墓は、御嶽山登山入口にあった祥雲寺裏の山王墓地へ移されたといわれる。
 この公園のあたりは、現在は東区三であるが、昔は栄町と呼ばれていた。
 この栄町の東側には、旧家榎戸家があり、三那珂合併当時の旧岩瀬町長であった榎戸耕衛氏、またその弟で、洋画界の茨城の芸術家、そして町の名誉町民である榎戸庄衛氏の生家でもあった。
 
(平成7年10月発行)


「岩瀬西区 西新田村」

 東区に対して西区と言われる町筋は、昔から西新田村と呼ばれ、江戸時代には、文化年間の資料によれば戸数は二十九軒で八十二人、職業として鍛冶屋・紺屋が各一戸あったが、他はすべて百姓の集落であった。
 その後、明治十一年に三村統合して岩瀬村になり、水戸線岩瀬駅が開所するや東区から西区へと市街化されたのだった。
 この街並を通る旧道の、西区と東区の境に掘割が流れ、川岸に自然石で建立された二十三夜供養塔がある。
 天保八年西新田邑渡辺三良兵衛と誌され、百五十年を経た現在でも、しっかりと文字が読み取れるのだった。
 昔はこの碑の北側に飯田医院があったが、現在そこには岩瀬の女流歌人である飯田深雪さんが健在で、語るところによれば、実家はその昔、坂戸城主として宇都宮氏の中郡地方への備えであった、芳賀氏の一族・小宅氏で、現在、益子町の北部に残る小宅の地名が小宅氏発祥の地で、代々坂戸城主であったと言われている。
 飯田さんもその血を受けついでいるので現在、先祖である芳賀氏・小宅氏の事跡を調べているとの話であった。
 この小宅坂戸城主の滅亡は、主家宇都宮取潰しと同時であるが、その後、小宅氏の子孫は水戸徳川家に仕え、大日本史の編集に携わる学者であったと伝えられている。

(平成7年11月発行)


「大神宮界隈」

 旧国道50号の東区と西区の境目北側に、終戦後間もなく映画館(大映映画劇場)が出来、テレビが普及するまで約二十年間、人々の娯楽の中心として栄えていた。
 そこから街道を西へ進むと、北側が杜になっていて、道から五十メートルくらい参道を歩むと石鳥居がある。正面に大神宮柱の拝殿、西側には稲荷柱の祠があり、そのやや奥の杉木立の中に八坂神社の神殿がある。
 この古津田にある大神宮の祭神は、大日霊貴介で、室町時代の創建と伝えられている。
 境内には榧の巨木があり、そこでゲームを楽しんでいた古老の話によると、この木は大変古く子どものころに見た大きさとほとんど変わっていないと語るのだった。
 その榧の根元には、昭和九年に竣工した神吉橋の祈念碑があり、地元の寄付でコンクリート橋に架け替えられたということだったが、現在は桜川改修に伴い立派な永久橋になっていた。
 神宮橋から南、保健センターの街道筋に大きな祈念碑がある。
 そこは、水戸区裁岩瀬出張所、つまり登記所のあった場所である。

(平成7年12月発行)


「西区ぶらり歩き」

 水戸区裁岩瀬出張所記念碑前の旧国道を東へ歩いていくと南側に広い屋敷があり、石鳥居と社殿が見えてくる。
 それは、太田英夫氏の氏神で、初代太田定吉が奈良県の龍田の宮から御神体を迎えて屋敷内に祭祀した祠で、「龍田神社」と記されている。
 定吉は、同じ西区の旧役場前、太田家の分家で、ひたすら農業に励み、太田家の今日の基礎を築いた。
 その祖先定吉の霊を、報徳の思いが強かった先代、斐氏が合祀したといわれている。
 この太田氏の東隣りが、昔から「親方」といわれていた榎戸家で、四足門と整った庭木に旧家の面影を残している。
 先祖平八郎昌勝は、若い頃は江戸相撲に入門したほど体力に恵まれていたといわれている。
 当時は、広く困った人々の世話をしたり、北陸移民百姓の面倒を見たこと、また笠間の牧野家城代家老より名字帯刀を許されたことなどによって、いつしか近隣の人々からも「親方、親方」と親しまれた。
 このようにして平八の名跡は、西区の榎戸家が受けついだと伝えられている。
 この榎戸家出生の榎戸平三郎は、日清・日露と明治時代の大戦に従軍。
 陸軍中尉として無事退役してからは、長く西那珂村の在郷軍人会長として活躍したが、惜しくも五十代で他界、その徳を惜しんで建立されたのが、現在も榎戸家に残る「順徳碑」である。
 
(平成8年1月発行)


「日比谷稲荷異聞」

 真壁街道と町道の交差点(西区十字路)角に、二十三夜塔がある。そこには「右しもだて」「左まかべ」と記されている。
 そこから犬田踏切に向かって進むと、右側に石鳥居と日比谷稲荷神社と記された碑があり、神社の両側に稲荷社の使い神である狐の石像が置かれ、その奥には三間四面の社殿がある。
 また、近くに住む今年九十一歳になる谷島さんの話によると、谷島家は古くは新田義貞ゆかりの家柄であったが、戦いに敗れ諸国流浪の末にこの地に土着したのが、谷島隼人である。
 代々旅龍を営みながら乾物等も商っていたが、ある時宿泊した旅人が病になり、手当てを受け回復したが、大切に持っていた包みを主人にわたし「この稲荷様は代々私の家の氏神で、日比谷稲荷と言いますが、私も見るとおり年を重ね今までお祀りする場所を探して旅をして来たのですが、神様を背負って出かけようとすると、急に身体がこわばって動けなくなります。きっとこちら様がお気に召されたと思います。どうかこちら様でお祀りしてください」と頼むのだった。
 すると主人も気の毒に思い、「いいですともお祀りします」と約束をした。
 すると旅人は安心して立ち去り、その後、それまで谷島家の氏神であった稲荷社を地区にお願いし、現在も集落による節分祭・初午祭や近年まで御田桂祭りなども行われていた。

(平成8年2月発行)


「青木堰・二宮尊徳の堰柱」

 日比谷稲荷社南側の狭い道が西区と犬田の境と言われている。
 この道を西へ歩いて行くと、北側に水子地蔵を祀った幟が風にはためき、馬頭尊と水子地蔵の碑が建ち、真乗院という日蓮宗の寺がある。
 近所の人の話によると、今も参拝者が多く、月に一度ぐらいは本寺からお坊さんが来ているらしいとのことである。
 また、近くには広い屋敷の旧家である渡辺家がある。その主人、渡辺義男氏は、若いころ二宮尊徳に心酔し、尊徳の足跡を訪ね歩いたそうだ。
 そして、渡辺宅には二宮尊徳が青木堰に使ったと言われている、堰柱の一部が保管されていた。
 天保三年、青木村の名主・館野勘右衛門の嘆願を受けた二宮は、尊徳流のやり方で川幅いっぱいの家を造り、それを川に吊して自から屋根の網を切って川に沈め、前もって集めさせておいた木石を投げ入れて堰を造った。
 その後この堰は、弘化二年と嘉永七年に永久堰(コンクリート堰)になるまで使われていた。
 また、二宮神社の鳥居や青木村薬王寺の山門は、永久橋になる前の堰の四本柱(欅柱)を使用したと言われ、この木片は、故・太田斐さん(西区)が薬王寺からその一本をゆずられ、それを輪切りにしたものを渡辺さんがゆずってもらったと言われている。
 また、渡辺氏の西側にある火の見の場所は、西那珂村当時の役場跡である。
 その百方、現在の友常医院敷地は、犬田の仙波清綱氏が大正期に開校した盛徳女学校が建てられた所で、昭和二十年代まで存続していた。

(平成8年3月発行)

古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」