将門伝説【6】
咲かずの桔梗
将門をめぐる女性の中で、溺愛(できあい)と思われるほどの情けを受けたのが桔梗の前でした。
美しい女体、白い肌、柔らかい感触は将門の体を締めつけて離しませんでした。逞(たくま)しい抱擁の中で、顳(こめかみ)がぴくぴくと動く彼の愛撫(あいぶ)に陶酔(とうすい)も長くは続かなかったのです。信じていたこの女性が、将門を裏切ったからです。
桔梗の前は合戦の折、秀郷の手の者に助け出されましたが、自分のとった行為を恥じ出家して尼僧となり、将門の霊を慰めるために巡礼の旅に出たといわれています。
別説では、将門を神・仏とも崇めていた人々にとって、桔梗の前を許すわけにはいかなかったのです。「将門さまの秘密を敵に教え、その首をとらせるなんて!」と激怒し、桔梗の前のの首を刎(はね)たといいます。
いずれにしても、その深い恨みは、可憐(かれん)に咲く桔梗の花(ききょう科の多年生植物、秋の七草の一つ)に向けられました。
将門と深いかかわりのある大国玉(将門の正妻、君の前の出生地)を始め、将門の活躍した県西南の地域では、青紫色の桔梗の花は決して咲くことはなく、「咲かずの桔梗」(桔梗あれども、花咲かず)という伝説が残っています。
人間の欲望や権力に利用された薄幸の女性、桔梗の前の哀れさが今さらのように思いやられます。
それだけに、人間同士の信頼感、血と地を大切にする風土を育てた、将門の人間性には強い愛着を覚えます。
将門の秘密を握った藤原秀郷は、下野国沼田館(ぬまたのやかた)(佐野市)で、将門討伐の作戦を練りました。
そのひとつが、台地を利用した城塞づくりでした。平野の騎馬戦に強い将門の軍勢を誘(おび)き寄せ、眺望(ちょうぼう)のきく台地で叩く、そこは攻守の地の利があるからです、東に五行、小貝の流れ、西に岡芹(おかぜり)の沼沢(しょうたく)と大谷川、北から南に馬の背のように延びる舌状台地が選ばれました。
このことが後に「下館」の地名の起こりとなりました。秀郷は上館(二宮町久下田)、中館、下館、元館の地に将門に備える兵站基地を構えたのです。やがて始まる戦いでは、この兵站が発揮され、秀郷軍勝利の因をつくったといわれています。
この事情を「将門記」は、天罰が下り神鏑に中(あた)ったと記して、「天下に未だ将軍自らを戦ひ、自ら死することあらず」と、将門の武勇を称えることを忘れてはいませんでした。
関東に武力をもって覇(は)を唱えた将門は、38歳の若さを一期(いちご)に敗死したのです。
首は下野国国府の解文(げぶん)を添えて、天慶3年(940年)4月25日、京に達しました。
文:舘野義久(大和村教育委員)
取材協力
浜田祐造さん(NHKディレクター)