古墳探検記【3】
日本武尊伝説
日本武尊に関する伝説は、村内はもとより県内に多く残されています。
東国の蝦夷征伐の帰路、筑波山を望む桜川の西岸台地に軍旅を解き、軍馬を休めました。そして、これまでの長き戦いに軍功のあった、この地方の豪族や兵士にねぎらいの言葉をかけ、褒美を惜しみなく与えたといいます。
そのことは、栄誉に浴した豪族たちへの士気を高め、大和朝廷への忠誠を約すことになりました。
この様子を、青木堂の入り古墳から出土した「ひざまづく武人の埴輪」(国指定重要文化財)は忠実に物語っています。
「日本武尊のためならば、一身を捧げ戦います。大和朝廷に刃向かうものあらばこの剣で倒します。」という、誓詞の姿が表現されています。
ところで、この夏、雨引小6年生が夏休みの研究に「古墳」を調べました。高森や木崎の古墳を、自分の足や目で確かめ、頂上部分の実測までしました。その一部を紹介します。
「当時の人々は、なぜこんな大きな古墳をどんな理由で造ったのか、また埴輪はどんな役割をもっているのか知りたい。歴史の本や実地を見学していくうちに、当時の人々の考えがわかってきた。」とのべています。
古墳や伝説への関心も高まり、もっと古い時代のことを勉強したいと、歴史へのロマン、探究心が湧いてきたことを素直に記していました。
大和朝廷の発展は、古墳文化に象徴される3世紀から7世紀までが最も顕著(けんちょ)でした。仁徳天皇の巨大な墳墓は、それを反映したものといいます。
朝廷に従った東国の豪族たちも、その権威を示すため、それぞれの地域に土盛りの高い円墳を残しています。このような土盛りの墓を「古墳」といいます。
大和村にもこの時代、朝廷に従い東国の蝦夷(えぞ)と戦い、新しい国づくり(新治の国)に貢献した豪族の古墳が数多くありました。
この中の一つに高森古墳群(大和駅の北側)がありますが、ここに埋葬されている人物の名はわかりません。
しかし、墳墓の規模からして、新治国造(にいはりのくにのみやつこ)に仕えた族長クラスの人物と思われます。
また、ここは旧新治郡衛(郡の役所)が置かれた古郡(協和町)とは、隣接する位置にあることからも、相当地位のある高官の墳墓と推察されます。
おそらく、高森の地名の起源もこの古墳群の成立期と関係があるのかも知れません。倭武天皇(日本武尊(やまとたけるのみこと))に従い、軍功を賜った族長の墓を“高く盛り上げる”(この地をタカクモル=タカモリ)という意から付けたとも考えられます。
高森は、桜川西岸の高原台地で水害を受けることもなく豊かな土地で、当時、この名は瑞祥、美弥の意味をもつ代表的な名称でした。
この地は、古くから高木の茂る森があり、高木には神が宿るという信仰がありました。神聖視され、神社が設けられたともいいます。
「風土記」には、上が守る地のためのタカマモリ(高森)と呼ぶようになったとも記されています。(古代地名語源辞典より)
文:舘野義久(大和村教育委員)
取材協力
坂井祐貴くん(雨引小6年生)
長壁あつしくん(雨引小6年生)
勝田聡子さん(雨引小6年生)