【真壁の登録文化財top】
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【31】旧真壁郵便局[きゅうまかべゆうびんきょく]
【32】川島書店[かわしましょてん]
【33】川島洋品店[かわしまようひんてん]
【34】山中家住宅[やまなかけじゅうたく]
【35】三輪家住宅[みわけじゅうたく]
【36】星野家住宅[ほしのけじゅうたく]
【37】村上家住宅[むらかみけじゅうたく]
【38】市塚紀夫家住宅[いちつかのりおけじゅうたく]
【39】平井家住宅[ひらいけじゅうたく]
【40】土谷家住宅[つちやけじゅうたく]
【31】旧真壁郵便局
▲旧真壁郵便局
▲中村裕道画集より
① 旧真壁郵便局〔昭和2年〕
旧真壁郵便局は、真壁中心部の建築物で、昭和2年、国立第五十銀行(現常陽銀行)真壁支店として建設されたものです。
昭和31年からは、真壁郵便局(特定郵便局)として昭和61年まで使用され続けました。
現在は、内外部に郵便局時代の面影を残したまま、町並み案内所として利用されています。
▲旧郵便局入口
▲真壁夜がたりの風景
普段は、町並み案内所、まちづくりの拠点として活用されています!
▲登録標
▲見世蔵
▲中村裕道画集より
① 見世蔵〔江戸末期〕
川島家は、初代が江戸時代末期にこの地で生薬店を営んで、当主は「清兵衛」を襲名します。
その後、荒物店を経て様々な商売を行い、4代前からは書店を営み、見世蔵もその店舗として利用しました。
▲登録標
【33】川島洋品店
▲土蔵
▲中村裕道画集より
① 土蔵〔江戸末期〕
川島家は、江戸時代末期にこの地で商いを始めたと伝えられ、以降、荒物・太物・瀬戸物等を扱って、現在の洋品店に至っています。
明治末期頃は、同じ敷地内で養蚕も行っていたと伝えられ、町の中心部でも養蚕が行われていたことは、真壁の養蚕業の隆盛期を伺わせるものです。
▲登録標
▲長屋門
① 長屋門〔明治初期〕
② 土蔵〔明治中期〕
山中家は代々農業を営んでおり、当主で10代を数えます。
長屋門は部材の古さや形式から明治初期の建設と考えられますが、当家には笠間藩の陣屋(真壁)に金を納めて建設したとの言い伝えもあり、江戸末期の可能性も残ります。
▲登録標
▲見世蔵
▲中村裕道画集より
① 見世蔵〔大正初期〕
② 主屋〔大正初期〕
三輪家は、3代前に現在地に履物店を構えました。見世蔵と住居を建設したのは2代目です。
同家では、これらが敷地の奥の土蔵にやや遅れて建設されたと伝えられており、その土蔵には明治43年上棟の棟札が残されています。
▲登録標
▲鏝絵(こてえ・漆喰飾)です!履物屋さんだけに高下駄の飾が施されています。
▲店舗及び主屋
▲中村裕道画集より
① 店舗及び主屋〔明治中期/昭和初期改造〕
星野家は、屋号を諸川屋(もろかわや)と称し、現在で6代目となります。江戸末期に、茨城県旧三和町の中心部である諸川地区からこの地に移り住み、真壁に陣屋のあった笠間藩の御用商人で、乾物屋を営んでいました。
▲乾物屋さんならではの、”干”の鬼瓦です!
こういうところのちょっとした飾りを見つけるのも楽しいです!
▲登録標
▲主屋、表門
▲中村裕道画集より
① 主屋〔明治35年頃〕
② 離れ〔昭和初期〕
③ 土蔵〔明治35年頃〕
④ 表門〔明治初期/明治35年頃移築〕
⑤ 石蔵〔大正中期〕
村上家が、現在地に店舗を構えて移り住んだのは明治35年頃で、3代前に分家・独立して材木店を創業したことによります。現在も材木店を営んでいます。
▲登録標
▲店舗及び主屋
① 店舗及び主屋〔明治初期〕
市塚家が現在の石材業を始めたのは、30年ほど前からであり、それ以前は醸造業、更にその前は養蚕を営んでいました。
▲登録標
▲店舗及び主屋
① 店舗及び主屋〔明治中期〕
② 土蔵〔明治26年(1893)〕
平井家は、江戸中期頃から続く旧家で、代々この地に居を構えていました。
明治期以降は米穀店を営み、かつては、住居の奥に精米所があったといいます。戦後の昭和30年になって精肉店に転業しました。
▲登録標
▲土蔵
▲中村裕道画集より
① 土蔵〔江戸末期〕
土谷家は、初代が江戸時代末期に千葉県佐原市からこの地に移り住み、造り酒屋を始めました。
屋号を「佐原屋」と称して代々酒屋を受け継いできましたが、3代前に酒屋を廃業しました。
現存する土蔵は、2代目が建設したもので、天保4年(1833)の台風災害後の「お助け蔵」であったとも伝えられています。
▲登録標
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