平成10年度
「基盤の碑から鹿島神社」
長方南の坂下から北への道は、坂戸山の麗をとおり大泉の鴨鳥神社の前へと通じて、烏山街道と云われていた。
長方北の集落は、この道から西へ畑の中の農道を行くが、途中に大きな碑があり「基盤」と大書された下に、岩瀬町長方受益面積三十二町歩、昭和三十七年に計画に計画委員を発足して、三十九牛四月三十日に完工したと誌され、現在の農業行政を予見していたのか大型農機利用と後継者育成が目的とうたって、受益者七十七名が完成を記念して碑を建ててこの事業を後世に伝える……と記され、基盤整備事業の魁であった。
この碑から少し歩くと三差路があり、角の所に小さな二十三夜供養塔があって寛政十一年と記されていた。
この供養塔から少し先の道路北側に、パイプ製の幟り竿が見えるのが鹿島神社の境内入り口である。
鹿島神社は現在の長方北区、小幡村の鎮守で足利時代の創建と伝えられ、祭神はタケミカヅチノ大神と云われて、天照大神の正使として大国主命に国譲りの談判をした神様で、武の神であることから建御雷之神に参拝して、出征することを古代から鹿島立ちと云われていた。
この社殿から東の台地には集落の広い墓地があって、脇には四月八日と八月十七日が縁日と云われる観音堂がある。
(平成10年4月発行)
「文殊院界隈」
長方北区は、二十三夜塔を左に折れて西へと歩くと道路北側の石鳥居が中風に霊験があると云われる青麻大権現の社である。
その西側の赤屋根のお堂が、熊野山不動尊を祀ると云われる文殊院で山門には、天台宗寺門派と記され、滋賀県は近江大津市にある園城寺の末寺であると言われ、本尊の不動明王は埼玉県秩父郡吾野村坂本集落に伝えられていたのを村上氏が、西光院跡に勧請移転したと伝えられている。
文殊院は修験道の寺院で、檀家こそないが、昔は金鎮火祭の行事である火渡りの神事なども行ったと伝えられ、山伏装束に身を清めた行者姿の村上氏は、ホラ貝を吹きつつ各家々を不動様のお札を配って歩いたとも語られている。
修験道は、役の行者が開祖と伝えられる山岳信仰で、天台宗の始祖最澄の弟子であった慈覚大師を中興の祖として天台宗とは深いつながりをもつようになったものと思われるのだが、今から約八百年前稲田の草庵に阿弥陀信仰を説いていた親鸞を呪い殺そうとした山伏弁円は、加波山を中心に常陸の山伏の支配権を佐竹氏にたくされていた程の力のある修験者であったと伝えられている。
文政九年の寺社差出帖には、西光院境内東西二十八間、南北二十五間と誌されている。
(平成10年5月発行)
「明治天皇行幸の酒井家」
中泉村、つまり現在の中泉集落は笠間結城街道が村の中央を通り、東が長方地区、西北に下泉地区、西は上野原地区で江戸時代末の中泉地区は笠間藩領二百九十石、幕府天領二十余石と記され、戸数は僅かに二十一戸と街道沿いではあったが狭い集落であった。
長方中泉農村集落センターの西北の旧家で、現在バラ園を経営している酒井家は、四ツ足門を入ると座中バラの花盛りであったが、重々しい門前には道路に向って古い案内板があり、明治三十三年近衛師団小機動演習天覧のため、茨城県下行幸の際、十一月十七日御益食を召されたる処、又御講評を賜わりたる処にしてよく芭規模をたせり。昭和十年三月二十六日と記され、大きく文部省と書かれてあった。
その前の碑には、大きく史跡明治天皇岩瀬中泉行在所御講評所と記され、側面には史跡天然記念物保存法に依り史跡として、昭和十一年三月文部大臣指定と誌されてあった。
酒井家は問屋という家号の示すように、昔は笠間牧野家の御用をつとめた程の海産物問屋で、浜からの海産物を多くの馬を使って運送して、栃木県地方までも販路を広げた大問屋であったと言われている。
酒井家には天皇行幸の縁で三笠宮様をはじめ、宮様方が何人かお立寄りになられたと語られる。
(平成10年6月発行)
「中泉観音堂界隈」
明治三十三年の大演習、天皇行在所の酒井家の前の道を西ヘ歩いてゆくと、突き当たりが中泉の観音様と云われる延命観世音菩薩を祀る御堂だが、その少し手前の酒井商店の前、道路に面して大きな碑が建てられている。
この酒井澄さんの庭に一段高く築かれた台座の上には、明治三十七・八年の日露戦争は旅順戦で戦死したと云われる酒井茂左衛門の顕彰記念碑であった。
結城笠間街道も、延命観音堂前が三差路になっており、北から西へ進むと小栗で、やすらぎの里の道標の裏には観音堂や馬頭尊の稗と数体の野仏が祀られていて、その南側を西へと坂を下ると岩瀬一の大沼である「上野沼」へと通じるのだった。
江戸時代、観音畠という処から移し祀られたという延命観音堂は、例祭が七月二十五碑の夏祭りで、昔は集落のお祭りとして、随分と賑やかだったとも云われ、古老の語るによれば、昔は老婆たちによる百万遍念仏(おで念仏)講なども盛んで堂内でしばしば行われていたと云われている。
この観音堂を北から東へと集落の北を坂下へと通じる道が、昔は、鎌倉街道と云われる古道とも伝えられ、途中の桧林の中には、子供の夜泣きと虫封じの神様と云われる息栖明神が祀られていた。
(平成10年7月発行)
「上野原瓦窯跡」
江戸時代初期に造られた岩瀬町で一番大きな用水溜池である上野沼から協和町久地楽に至る国道沿いは、現在ではもっとも大きく発展しつつある通りであるが、つい四十年位前までは、松林が長く続くだけで昼もうす暗く感じる程の淋しい通りで、しばしば追い剥ぎが現れたとの噂の絶えぬ上野原の並木道であった。
今から千二百有余年も昔に「常陸国新治郡の郡司として新治郡大領新治直子公、銭二千貫、商布一千反を献ず。正五位下を授く」と続新日本紀は語るが、この文書通りに上野原台地が新治の中心であったことを示す遺跡が、新治郡衙跡、郡寺(協和町古郡)瓦窯跡(岩瀬町上野原)と約一粁以内の間に多くの遺跡が発見されている。
うらつくばドライブインの西、二百メートル位の狭い農道を南に進むと柵をめぐらした草原に「上野原窯跡」を詰された案内板があるので、広い窯跡を知ることができるのだが、説明によると昭和十五年に発掘調査の結果、この上野原新田に新治郡役所や郡寺に使用したと思われる屋根瓦を焼いた工房跡や建物跡と共に無数の古瓦や土器、墨書土器などが多く出土したと誌され、昭和十七年に国指定史跡として国の文化財に指定されたと、岩瀬町教育委員会の案内板は語るのだった。
(平成10年8月発行)
「新治郡役所跡」
岩瀬上野原反窯跡から、西ヘ数百米ばかりの台地畑に「史跡新治郡衙跡」と大書された大きな石の標柱があるが、ここは岩瀬地内からわずか百米位の所であり、協和町古郡とは云っても現在の岩瀬上野原台地も合わせた広い丘陵一帯が、昔の新治郡の中心であったと想像すると胸がときめく思いである。
説明板には「昭和四十三年五月二十日田指定新治郡郡衙跡」と記されて、奈良時代常陸国新治郡役所として協和町と岩瀬町の境ににいはり大領家の官衙として五十一棟の遺構を確認調査され、日本後記に(弘仁八年十月常陸国新治郡不動倉十三宇災焼穀九千九百九十石)東部建物郡の遺構は一致すると誌されているが、発掘当時は大量の焼米が出土したので考古資料と不動倉及び郡衙の存在は新治郡衙の調査を地方古代史の画期的発掘と位置づけられたのであった。
因みに新治郡とは常陸六国と云われ昆奈羅珠命が国造りを始めて新治国と称したと伝えせれ、後に日本武尊が東従の折にも新治の井で身を清め、その清水で喉をうるおしたとも伝えられているが、門井がその清水に由来した地名であると云われている。
鬼怒川から笠間在にかけての広い新治郡のうち郡衙から岩瀬一帯は中郡荘と云われていた。
(平成10年9月発行)
「新治廃寺」
上野原集落の国道を協和町ヘと歩くと、国道脇に岩瀬町の標識があり、その北の梅林の一段高い金堂跡があり大きな榎が天空に枝を茂らせている。
根本には「史跡新治廃寺址文部大臣指定」と書かれた碑と説明板が建てられている。
それによると、新治郡の大領であったと伝えられる新治直が郡の中心であるこの地に郡役所と共に郡の寺院を建立したといわれるのだが、平安初期の弘仁八年に新治郡衙の火災と共に焼失したと思われると説明板は語っている。
そして、昭和十四年からの発掘調査では、中門・金堂・東塔・西塔に講堂や僧侶跡等も発見された。
この郡寺跡は、岩瀬町境いではあるが、協和町の郡衙と同じく使用した瓦は、岩瀬地内の三か所の窯跡で焼かれたもので、中世中郡と云われた岩瀬町とは深い関係がある。
また、上野原台地から古都一帯は高台でありながらも、清水に恵まれた上に、現在の下館から笠間にかけての新治郡の中心でもあった。
「日本武尊」の新治の井の伝説「筑波の山に黒雲がかかり衣袖潰の国」と尊が御手を洗ったときに、衣の袖がたれて水にぬれたので、袖を水に浸したことから現在の茨城県は、「ひたちの国」の名称になったと、常陸風土記に誌される程、この地は、ひたち国名の発祥の土地であると伝えられている。
(平成10年10月発行)
「上野沼」
昔は新池とも云われた上野沼の西側を北へ、国道から小栗街道に向って歩くと上野原病院や上野原学園があるが、昔は一帯が広い林で、遠くは平将門の天慶の乱や南北朝時代の古戦場でもあったと伝えられる上野原で、その由緒として岩瀬町史には「延歴年間下野国僧広智講師当那珂郡坂戸庄上野原地二於テーノ草堂ヲ創建シ晶屋道場ト云フ。天安年中慈覚大師東興遊化ノ頃、此ノ堂二駐錫シ草堂ヲ造換シ堂塔ヲ結構ス、自作ノ地蔵尊ヲ奉置シ・・・・・・古往ヨリ今ニー月十四日開山会ト唱ヒ法要后大飯トテ末門担徒へ強飯ノ例アリ」と、強飯式の事が記されて、平将門の乱も「阿後山十輪院妙法寺ト改ム。斯ノ該寺傍近ク台ノ原地内二平将門牙堡アリ天慶ノ浜火二預り寺塔等回禄ス」と誌され、また妙法寺の伝えも昔は沼の西に旧寺跡はあったと云われている。
その通りを歩いて小栗街道に出てから東の上野沼の「やすらぎの里」へと足をのばすと、事務所の前のきのこ型をした石造の時計台が出迎えてくれた。
岩瀬町一のレジャー観光地としての遊び場やバーベキュー広場を通ると、広い沼辺には多くの釣り人が糸をたれ、湖上には水鳥やボート遊び、湖畔には筑西広域職業訓練センターの白い建物、その近くには農林水産省霞ケ浦用水上野沼機場が三五〇年前に造られた逆さ堀跡わきに、現代の逆さ堀事業の集大成として機能しているのだった。
(平成10年11月発行)
「下泉集落と大飯まつり」
岩瀬盆地の西で、協和町境の下泉集落は、その南東が長方、中泉集落で、東北に西飯岡、堤上地区、西が本郷地区で、南北に長い平らな集落である、江戸時代は一部が天領であり、全て笠間頭であった。
弘化三年の、笠間領内の人別調べによると、二十七戸の百五十五人であったと記されている。
上の沼近くの下泉新田から、本田地区へと歩くと西側に本郷の妙法寺があるが、その北東の遠辻には大同二年(八○七年)創建の鹿島神社が祀られており、その神事として、「大飯まつり」が行われている。
伝えによれば、防人を送り出す際、お椀に埋高く盛って祝い食し、兵士を送った「鹿島立ち」の神事から伝えられたと云われている。
当屋の広間に氏子が集まって朱塗の膳に竹割の箸を芯にして盛り上げた、一升ちかくの米飯を一年の息災を祈ってお祓いをした後、全員で食するものである。
蕎の帽子に藁のみのをまとって大しゃもじを持った当屋の主人が、「それ食え!それ食え!」と満座の人々にご飯を無理強いするのが圧巻である。
奇習と云われるこの行事は、西の本郷地区とともに代々受け継がれて現在に至る。
昔から女人禁制の神事で、盛り付けから給仕に至るまで男ばかりの行事で、今年も十二月十三日が強飯式の日である。
(平成10年12月発行)
「下泉新田から本田地区へ」
下泉新田地区から本田地区に至る道路脇に基盤整備の用水池があり、近くの三差路には、弘化四丁末年下泉村と記された大きな馬頭観音の碑がある。
また、そのそばに明治初期に建てられた、延命観音と南無阿弥陀仏の碑や、小さな五輪塔がある。
地区の人の話によれば、平らな集落平将門ゆかりの五輪塔と伝えられ、昔は台の原にあったのだが移し祀られたと言われる。
以前は、地区の婆さんたちがよく鉦を打っては念佛を唱えたと伝えられ、天道念佛とも躍り念佛とも、いわれているようだ。
この辻を東に坂を上がると、仁平家で、昨年十二月十三日に大飯まつりが盛大に行われた。
前日から近くの人々が集まって鹿島様の神事であるこの行事の支度をしている。
現在、集落で行われている大飯まつりも、以前は格式があって、その権利のある家しか参加する資格がなかったそうで、昔はおおにえ祭と呼ぶのが正式であるそうだ。今年の当屋は、新田地区の平石家で行われるそうだ。
(平成11年2月発行)
「鹿島様界隈」
妙法寺北側には、下泉と本郷地区の集落鎮守である鹿島神社が祀られている。
石鳥居から長い参道を歩くと、社殿は、平成二年に改築されたもので、東側には天皇の御大典記念の碑が建立されている。
記録によると、神社東側には、神宮寺という修験道の寺があり、そこには修験者であったといわれる高橋家が、「鹿島寺柯掌」として、また「別当職」として大飯祀りも司祭していたと伝えられている。
この鹿島神社から東へ歩くと、防火用水があり、その南側には神宮寺のものと思われる、多くの墓石がある。
さらに南側には薬師堂があり、境内には、元禄三年と記された「權大僧都弁栄法印」の墓がある。
この場所の東の田んぼには、大きな二十三夜供養塔があり、その北側が小栗街道である。
昭和四十年代には、街道近くに当時の下泉集落農村青年の養豚組合共同豚舎があって、集落に豚糞によるメタンガスを供給して農村生活改善を計画した時代もあったといわれる。今は、遥か遠い思い出となっている。
また、近くの分校跡は、集落老人のクロッケー場として賑わっている。
(平成11年3月発行)
古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」