よみがえる金次郎【壱拾壱】~【壱拾五】


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【壱拾壱】領主の依頼状
【壱拾弐】青木築堰
【壱拾参】青木村の復興
【壱拾四】出精特奇人表彰
【壱拾五】青木村の反乱



【壱拾壱】領主の依頼状

 二宮尊徳の青木村仕法に、名主勘右衛門の片腕となって尽力していた人物に重左衛門(村役人・名主。現当主廣澤光一郎氏)がいました。

 青木村下組を取りまとめ、仕法が停滞なく進行するよう、村民のやる気を引き出し、荒地開発・堰普請・植林には率先垂範(そっせんすいはん)指導者としての力量を発揮しました。尊徳から「表の勘右衛門、裏の重左衛門」といわしめた程の厚い信頼を得ていました。回村の折には重左衛門家を訪問、野火を防ぐための植林の必要性を説き、尊徳自ら屋敷内に火に強い黐(もち)の木を植えています。

 天保2年(1831)の「青木村荒地起し返し、難村復旧の仕法取扱い方嘆願書」をはじめ、青木堰普請に関係する文書には、名主勘右衛門と連署でその名が記載されています。

 青木村は旗本川副氏の所領のため、領主の了解なく仕法を進めることは出来ません。堰が壊れ、田植え後の給水が思うようにならないため、川副氏よりの正式依頼のないまま、仮工事の堰止めを翌年の7月18日に着手、8月6日には完成を見ました。

 この工事は、尊徳が費用を貸付けただけで、一切村民により行いましたが、村民は工事に不馴れなため、尊徳は桜町で用いた道具、破畑(はげた)人足(土工夫職人)や西沼村丈八、物井村忠次、岸右衛門などを派遣しました。これに要した費用は、村人足575人、発畑人足150人、雇入足104人、米百13俵、空俵(あきたわら]881俵、萱(かや)100余駄金11両余という大がかりなものでした。

 とりあえず植えた苗を潤すだけの給水は確保できたが、水の回りが遅く不安でならない。一日も早い堰の本工事が待たれたのです。しかし、尊徳にはこれ以上手が出せなかったのです。
 「領主川副さまの正式依頼ない限り、わしは動けない」臍(ほぞ)を噛む思いで天を仰ぐのでした。

 その年は暮れ、新しい年天保4年(1833)2月になって、川副家の用人並木柳助、金澤林蔵の両名が桜町陣屋にやって来ました。領主川副勝三郎の書状を二宮尊徳に渡します。
 

「御願申す一礼のこと」 

 当知行所である常州真壁郡青木村は、用水、溜池はございますが、数年来捨ておかれ、大破いたしております。手入れも村方困窮して行き届かず、田畑が荒地となり、一村亡所同様になり、非常に嘆かわしい次第です。幸いあなたさまが隣村へご出張なされ、趣法成功のこと村方からお聞きいたしました。ついては、どうか右のご趣法を私共の青木村の開発にもお世話いただきたく、お願い申しあげます。

 もし、ご趣法を実行の際は、何事によらずあなたさまのお指図に従い、決して相背かぬよう百姓たちにも、申し伝えてありますから、どうぞよろしくお願いいたします。

  天保四癸己二月
      勝三郎 印
      二宮金次郎殿

 千五百石の大身(たいしん)旗本が、農民の出身の金次郎に頭を低くしての依頼状です。


▲二宮尊徳が植えた黐の木(廣澤光一郎氏屋敷内)

[文:舘野義久]



【壱拾弐】青木築堰

 青木築堰の工事で大事なことは、増してくる水嵩(みずかさ)と如何にして闘うか、つまり短い日時内に川止めをするかということです。桜川の低い所から取水するのですから、水圧に耐えられず堰が崩れることが心配なのです。

 尊徳は秘策をこめて、天保4年(1833)3月3日桜町陣屋を出発、青木村を回村、先に約束した荒地の開拓が予定通り実施されているのを見て、「懶惰(らんだ)の風(ふう)」(気力がなく怠ける様子)も改まったものと考え、堰普請を引き請ける決意をするのでした。

 3月7日尊徳の技能集団ともいうべき、西沼村丈八、東沼村専右衛門、物井村忠八、岸右衛門が大工、木挽(こびき)など専門職人を引率工事に着手しました。さすが桜町仕法で鍛えた連中、段取りの早いこと、村民は目を見張るばかりでした。

 尊徳手製の設計図に従っての事業区割、水の勢いを止める岩石は、青木山から掘り出し村民に運ばせました。水を汲み干す踏車(ふみぐるま)、堰堤の築造、特に高堰の枠組は、青木山から欅、杉、檜、松の大木が切り出されての造作、それはそれは大工事でした。もし、大雨にでも遭えば川床の掘立工事は水泡に帰してしまいます。

 この工事は、流水の中を掘って堰を造るのですから、早く木枠を埋める必要があります。尊徳は、ここで奇策ともいうべき奇想天外の発想で工事を展開したのです。

 川の上流の土手に、川幅に応じた一軒の茅葺の家を作ります。誰も何のためにこのようなことをするのか、不思議に思うばかりでした。これを両岸より吊り上げ、川の中央にせり出したのです。屋根に上って綱を切るよう命じますが、誰も恐れてやる者はいなかったといいます。

 そこで、尊徳自ら上り腰刀で網を切ると、傾きながら旧堰の棒杭(ぼうぐい)に引っかかり沈むと、「皆の衆!あの上に石を投げ込め!」と命じました。岩石、土俵、空俵、蛇篭を埋め杭を打ち流水は止められたのです。
 堰はその上に組立てられ、大小二つの水門を備え、水量の少ない時は小門を開き、多い時は大門を開くという合理的な設計でした。茅葺の家を沈めたため、川底の土砂の流れが抑えられ、水持ちもよく洪水にもよく耐えた堅固な堰でした。

 工事は3月7日より17日までの10日間で完成、水路の堀普請まで含めて3月24日に完了しています。要した人夫は1303人、茅1245駄、米173俵、金60余両でした。
 元禄15年(1702)真岡代官中川吉左衛門による堰普請と比べてみても、短期間のうちに完成、費用もかかっていないことがわかり世人が驚くのも無理からぬことです。

 青木村の古老たちは、この堰普請を「極楽普請(ごくらくぶしん)」と伝えています。工事が始まるや酒の好きな者には酒、餅の好きな人には餅を喰べさせ、士気を鼓舞し、早期完成に努めたわけです。


▲二宮尊徳による青木村桜川〆切用水高塙の図
天保4年築堰留めを始め弘化4年再築される
(青木、舘野正雄氏所蔵)

[文:舘野義久]



【壱拾参】青木村の復興

 青木堰が完成したことによって、村はめきめきと復興していきました。田には水が満々(みちみち)、余水は高森村、羽田村にまで及び村の様子は一変しました。

 尊徳は今までの苦労に報いるため、親孝行の者やよく働き誠実善良な者を選んで表彰しました。道路をつくり、橋をかけ、荒地開発、資産の貸出し、生活の苦しい者には種籾(たねもみ]、肥料代、鍬、万能(まんのう)などの農具を給与したので、本来の農業に競って励むようになりました。

 このため、荒田畑の開発も進み、天保4年(1833)には14町4反も開田、新規開発田は貢租が免ぜられるため、増収分は、尊徳より提供されている資産の返済に向けられたのです。

 領主川副氏への年貢も米80俵、永30貫余(畑作分)と決められたから、余剰の米穀は全て村の復興開発資金となったため、収穫も倍増、生活への喜びも湧き、充実していきました。
 天保5年から同11年までの7年間に、田畑16町5反を開発、その他溜池の造成、堰普請(毎年補修)堀の開鑿(かいさく)(新しく堀を造成)、家屋の改築、屋根替え等を実施、人夫延べ4千余人、これに要した費用770余両を支出しました。

 今でいう手作り、村独自の公共事業を青木村では展開していたのです。

 天保8年(1837)には、冥加米(みょうがまい)(領主に対するお礼米的性格)218俵を出すほどの裕福な村となったのです。この年は歴史上有名な「大塩平八郎の乱」が起こっています。全国的な大飢饉、百姓一揆が起き、餓死者が続出する始末です。

 近隣の農民の困窮は大変なものでしたが、青木村では1人の餓死者も出さず、桜町(二宮町・尊徳仕法成功の村)と同様、1戸5俵の雑穀を保有することができ、村民一同尊徳に感謝しました。(当時、青木村へ行けば、温かい飯が食えるといわれた。)

 しかし、”好事魔多し(こうじまおおし)“というべきか、天保8年には青木村に疫病が発生、多くの人が病臥(びょうが)に伏すということになるのです。

 このとき病気にかからなかった村役人、仕法責任者の舘野勘右衛門は、大和田山城(やましろ・注1)と相談、薬用、看護を専ら世話し、農事は新吉(名主・現当主鈴木忠雄家)、喜助(組頭・現当主栗嵜博家)、勇助(百姓代・現当主廣澤洋一家)が率先引き請け、元気な者を動員し、蒔付(まきつけ)、草取り、手入れなど援助したが、人手不足は避けられず、他村より人足を雇って農耕を行ったのです。

 この時の費用は、仕法余剰金より、無利息7ヵ年賦として貸付けられ、人足代40人分、種籾1140俵に及びました。このことがきっかけとなって、村内には相互扶助の精神、尊徳の教えである「推譲(すいじょう)」の心が芽生えはじめるのです。


▲大和田家(入毋屋昇殿造り・いりもやしょうでんづくり)
 間口12間×奥行8間、もとはかやぶき重層屋根、現在は銅板ぶき。(現当主 大和田久夫氏)

(注1)尊徳と親交のあった、大和田山城(敦房)は仕法で起る問題では仲介役を務めている。
 青木神社の神官で医師、当家の祖は戦国大名佐竹氏の一族で、古くから青木村に土着、家紋も佐竹氏と同じ「日の丸扇の五本羽根」。
 長子の外記(げき)(英房)は水戸藩天狗党に参加

[文:舘野義久]



【壱拾四】出精特奇人表彰

 天保十年(1839)までに青木村は、第1期の復興計画が完了し、桜町領(二宮町)とともに、尊徳仕法成功村、優等生としてその名が近隣に知らされるようになります。領主川副氏も大いに喜び、尊徳に知行地十か村の仕法実施を要請しました。
 
 しかし、一度に実施することは無理なので、困窮の激しかった加生野村(八郷町)で開始されました。この村は石高75石、戸数14軒の小村、多くの負債を抱えていたので、仕法の重点は、報徳金の貸付による荒地開発等の事業を、青木村を手本に進められました。

 ところで、尊徳仕法の原資である報徳金は、尊徳からの貸付金と領主よりの年貢定免[ねんぐじょうめん]による剰余金から成っていました。青木村では、その他に村の富裕農民層からの報徳金加入があったのです。

 堰の改修も進み、村柄も立ち直り、人口も増加するにつれ、尊徳は新たな手法で、村の復興に乗り出すのです。それは、「出精特奇人表彰」と「報徳金の貸付」を展開していきます。

 弘化元年(1844)代官役を命ぜられた舘野勘右衛門は、「新開地13町余、金194両」を報徳金に加入、名主新吉等もこれにならいます。農民を田畑あるいは金銭をもって報徳金に加入させようという試みは、成功していきます。

 尊徳は青木村の農民に、働く意欲の喚起ということで「入れ札」を導入するのです。この入れ札は、尊徳が決めるというものでなく、村民による入札という独特のものでした。

 この制度は、桜町領でも実施していますが、青木村ではより積極的に取り入れたのです。桜町のものとくらべると、そこに込められている尊徳の意図の違いが分かります。
 桜町の場合は、はじめてのことなので、尊徳自身に忠誠を尽くす者を選んで欲しいという気持ちがあって、選ばれた者に利益を与えるという点に重きがおかれました。

 青木村での入れ札は、出精特奇人(よく働き、誠実で意欲のある者)表彰ということで、選ばれた者に「一番 鍬三枚、二番 鎌五枚、二宮 金治郎」という褒美を与えていますが、尊徳の意図はこの入れ札によって、農民に報徳金の貸付、運用を普及させることにあったのです。(相互扶助、信用組合的考えの誕生)この金は無利息、五か年賦払いというものでした。

 無利息の金に魅力を感じない者はないはず。ただし、借金を必要とする者、しない者、借金の必要の程度など人によってさまざまです。自給自足の静かな村にも、商業資本の手は延びてきています。その中にあって長い間貧困にあえぎ、高い利息に苦しむ農民にとって借金には消極的、そのうえ金銭の有効活用など知らない、その日暮らしの人たちもいます。

 この報徳金を活用して、村の人たちの心の持ちようを変えなければ、生活の向上は望めないと尊徳は天を仰ぐのです。


▲「出精特奇人表彰札」廣澤光一郎氏所蔵
一番札 鍬3枚
二番札 鎌5枚
(金治郎は出生の名、のち小田原藩士となったとき、金・二・郎・となる。金治郎は私用の時に用いたという。)

[文:舘野義久]



【壱拾五】青木村の反乱

 青木村における尊徳仕法の経過を見るとき、最大の功労者は名主勘右衛門の優れた指導力と、土地を愛した農民の団結力に帰結します。
 しかし、最後まで大成功の図式を描くことが出来なかったのは、領主川副氏の分度、財政収支の確立が出来なかったということです。

 その点、桜町仕法の場合領主の分度確立がなされ、それが実行されたということです。また、尊徳の後楯(うしろだて)として小田原藩主大久保忠真があったという点、青木村の場合とは大きな差異がありました。

 青木村仕法は、領主側からの依頼で出発したものではなく、村民の「一村救済」という農民自身の止(や)むに止(や)まれぬ熱意が、尊徳を動かしての事業だったのです。
 領主川副氏には、積極的に農村救済という方策もなく、消極的な姿勢が常にまつわり、仕法推進の足枷(あしかせ)ともなっていたのです。領主川副氏の分度設定を文書化されなかったことも、後になって問題が惹起(じゃっき)することになります。

 尊徳が青木村に入った時、あまりにも困窮のはなはだしきを見て、とりあえず村民の願いである堰の築造を聞き入れ、併せて、報徳金の導入による借財の返済を行ったのです。

 その上、川副氏のためにも根本的な財政立て直し、分度の確立を進言しますが用いられず、その場しのぎの状態が続き、領主の財政は苦しくなり、借金が重み、その負債は農民側に押しかぶされるという始末でした。
 せっかく村が立ち直り、これから農民の生活も楽になるという矢先、尊徳との約束を破って、たびたび献納金の名目で、多額の金子(きんす)を上納させていたのです。

 川副氏の財政立て直しが出来なかった原因は、長い間収支に見合う生活、分度を確立しての生活をしてこなかったからです。その上、領主を取り巻く用人たちの人材不足も大きな原因と思われます。川副家には先見性のある人物は見当たりませんが、当時の旗本領は、おおかれすくなかれこのような状況でした。

 弘化3年(1846)には、領主川副勝三郎の江戸屋敷が火災で焼失、青木村には長屋門の建設資金として、135両の献納金が申し付けられました。これらの費用は年貢とは別の納入金、村の負債となります。
 村ではこれらの負債を如何にして行くべきかを相談しているところへ、領主の日光参詣金として必要、すみやかに年貢米、冥加米(みょうがまい・新田開発で得た所得からの税)永(えい・畑作の税金)の皆済(かいさい)を村役人を通して伝達されました。

 そこで農民たちは、年貢、冥加、永などの皆済は無理な申し付けであると、再三にわたり善処方を申し入れましたが、埒(らち)が明かず、遂に反対の実力行使に出たのです。
 時に、弘化4年(1847)12月26日から29日までの4日間、青木神社に集合、明神山に立て篭こもり、年貢皆済反対ののろしを上げたのです。


▲弘化4年(1849)青木村農民が不当な年貢皆済に反対、千日間にわたり山篭もりした明神山(向かって左の山)。


▲羽田北山(向かって右の山)山麓にある薬王寺(天台宗)の山門、二宮尊徳築造の青木堰遺構で建立した。

[文:舘野義久]


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