よみがえる金次郎『二宮尊徳』top
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(1)趣意書
二宮尊徳ゆかりの吉野桜植樹及び二宮尊徳青木村回村桜由来の碑建立について 【趣意書】 拝啓、年の瀬を迎え、皆様には益々お忙しい毎日をお過ごしのことと御推察申しあげます。 ≪実行委員会≫ |
(2)二宮尊徳関係史料
① 二宮尊徳先生顕彰碑
▲二宮尊徳先生顕彰碑
報徳先生ハ 姓は二宮 名ハ尊徳 相模ノ国栢山ノ人ナリ 先生ハ 天地ノ功徳
ニ報ユルヲ以テ教エト為ス 其ノ至ル所ハ 則チ荒蕪(荒れた土地)ヲ闢キ 民
ノ窮スルヲ救ウ 故ニ人称シテ報徳先生ト曰ウ 先生ハ青木村ニイタリ 救窮ノ
方修ヲ立テ 堰ヲ廃シ 荒田ヲ開キ 以テ窮ヲ化シテ富ヲ致ス 村民今ニ至ルマ
デ先生ノ徳ヲ称エテ忘レザル也 其ノ時ニ当タリ 青木村ハ幕府ノ士川副氏ノ采
邑也 村ノ西北ニ川有リ 桜川ト曰ウ 川ハ砂底細砂灰ノ如ク 木石築堰ヲ支エ
ズ(細かい砂で流されて堰にならない)水ヲ引ケバ洪水必ズ壊ル 修ニ随イ 壊
ニ随エドモ(壊れた都度修復を繰り返しても)遂ニ修セズ 故キ茅筏ヲ以テ田ヲ
填ム 民ハ怠リ 村ハ貧シク 村民ノ父老川副氏ニ聞キテ 謀リテ先生ニ懇請ス
之ヲ設クルノ方針(堰が流れてしまわないように築く)ハ民ヲ諭シ 勤苦シテ以
テ茅ヲ切リ 蓋ヲ開ク 先生モ又東山ヲ堀リ 石ヲ採リテ足ルヲ促ス(十分準備
をするように督励した) 以テ(それによって)木石ヲ両岸ニ聚メ先ニ(その前
ニ)川ニ架シテ(川にかけわたして)茅屋(かやぶきのやね)ヲ作ル 民竊ニ笑
イテ曰ク 堰ヲ築クニ何ゾ屋ヲ架スルヲ用イン(堰を築くのにどうして家を作る
必要があろうか)屋ノ成ルニ及ビテ 民ヲシテ屋ニ上リ 其ノ繫縄ヲ断タシム
民皆危疑シテ敢エテ之ニ応ズル莫シ 先生忿リテ曰ク 我コノ縄ヲ断タバ断タレ
タル茅屋ハ震ニシテ陥ル 先生 屋上ニ立チテ曰ク 汝等何ノ危キコト之アラン
ヤ 乃チ木石ヲ投ジ 急ニ屋上ニ填メルコトヲ命ジ 然ル後屋上ニ就イテ 以テ
築堰大小二門ヲ開キ 排水ノ利ヲ通ス其ノ後 シバシバ洪水ニ遇エドモ 堰復壊
レズ 或ル人 先生ヲ詰リ 堰ヲ築クニ屋ヲ作ルノ由ヲ以テス(堰を作るのに家
を建てたんですね、妙なことだ)先生曰ク 川底ハ細砂ニシテ木石ノ能ク支エル
所ニ非ズ 独リ茅屋ノミ雨漏ヲ防グ可シ 豈砂ヲ支エ不ルノ理有ランヤ 是レ吾
築堰茅屋ヲ沈メシ所以也ト 始メ 先生此ノ役ヲ興スニ多ク酒餅ヲ具エ 餅ヲ嗜
ム者ニハ餅ヲ供シ 酒ヲ嗜ム者ニハ酒ヲ飲マセ 唯過飲ヲ禁ジ 以テ廃役ニ至ラ
ズ 弱者ニハ役ヲ課セズ 怠者ハ之ヲ退ケ 力堪エザル者ニハ半日ヲ以テ休マシ
メ 且ツ雇銭ハ半日ヨリ数倍ス 是ノ故ニ 役夫ハ労ヲ忘ルト云ウ 廃ヨリ堪エ
テ既ニ復シ 田間ハ渠ヲ穿チテ水ヲ通シ 灌漑充足ス 隣村高森モ 亦其ノ余水
ヲ是ノ田ヨリ頼ミ 産滋クシテ戸口倍ニ殖ヤシ 民ヲ息ム 勧業節倹ヲ貴ビテ風
俗ハ淳厚 皆先生ノ徳沢也 先生 天明七年七月二十三日ヲ以テ生マル 父利右
衛門ト曰ウ 年十六父母ヲ喪イ 伯父ノ家ニ在リテ養ワル 一日慨然トシテ曰ク
天下救ウ可キハ貧民也 暇有レバ則チ草鞋ヲ捆リ 銭ニ換エ 以テ貧氓(貧しい
民)ニ恵ム 伯父ヲ辞シテ小田原ニ至ル 藩ノ重臣服部氏ノ奴ト為ル 其ノ家児
ノ通学ノ毎ニ僕トシテ之ニ従イ 傍聴シ 以テ四書ニ通ヅルヲ得タリ 又仏教ヲ
誦シ 益々救窮ノ儀ヲ悟ル 後ニ先生ハ服部氏ノ託(頼み)ニ応エ 其ノ家政ヲ
理ム 小田原藩主ノ聞ク所ト為ル 先生ニ任ズルニ支封(分家として領地を分け
与える)宇津氏ノ邑政(村の政治)ヲ治ムルヲ以テス 天保十一年 幕府摺シテ
(摺は複製の意味もある、宇津氏領での仕法を天領の復興にも役立てようとして、
ということになるか?)吏ト為シ 印旛沼開拓ノ命ヲ受ケ 用ヲ果サズシテ去ル
嘉永七年 日光奉行ニ属ス 神邑(日光神領の村)九十村荒蕪開拓ノ任ニ当リ 居
ヲ今市駅ノ官舎ニ移ス 安政三年十月二十日 病ニ罹リテ起タズ 享年七十有一
明治十年先生ノ孫尊親興復社ヲ創ム 十三年 中村藩主相馬充胤 報徳記ヲ上奏
シ 尋イデ朝廷先生ニ贈ルニ従四位ヲ以テシ 且ツ給与復社金一万五千円ヲ其ノ
用資ニ充ツ 先生ハ 聘ニ応ジ(招きにこたえ)救窮ニ任ジ 興復ノ計ハ甚ダ多
ク 曰ク小田原藩 曰ク烏山藩 曰ク谷田部藩 曰ク下館藩 曰ク中村藩 其ノ
事報徳記中ニ詳ナリ 嗚呼 先生ノ勤倹懇開ノ事跡ハ 独リ牧民者(国や藩の役
人)ガ効ヲ収ムルノミナラズ 誠ニ是レ後代モ亦村民ヲシテ能ク先生ノ教エヲ守
ラシメ 変エズ伝ウルヲ以テ 則チ将ニ田土ノ瞍者(目の見えない人)其ノ風俗
ノ美ヲ益スル者益シ 頃者 村民謀リテ碑ヲ建テ 以テ其ノ徳ヲ表ワサントシテ
来タル 徴余ノ余(門外漢の私)モ 亦先生ノ徳ヲ聞キ 以テ文辞ノ夙ニ欽仰ス
ル所ナラザルニ忍ビズ(敬い慕う思いを文章に表したい気持ちがいっぱいなので)
乃チ喜ビテ書ヲ為ス
明治三十年一月
正三位子爵 押小路実潔 在書
② 箱根の櫻と櫻川
▲尊徳が荒川泰輔に宛てた手紙「箱根の櫻と櫻川」
井口丑ニ著 大二宮尊徳 平凡社
嘉永5 年(1852)という年は、二宮家にとっては長男尊行が近江国高島藩用人三宅氏の娘鉸子と結婚、長女文子は相馬藩士富田高慶(尊徳の門人)に嫁がすという慶事に恵まれていた。尊徳66 歳の時でした。
当時尊徳は、下館藩、相馬藩の仕法に着手していました。そのうえ幕臣に登用され、日光神領の復興計画の作成と多忙を極めていました。そんな中でも尊徳は報徳金加入を含めて、報徳理念(勤労・分度・推譲・積小為大など)の実現を青木村の農民に願っていたのです。
この年の4月、金次郎(尊徳)から青木村仕法役、荒川泰輔への書状が送られていました。内容は青木堰付近に植えられている桜木のことが記されています。
別紙を以て啓上致し候、然れば御仕法向き仕上げ取り纏め方の儀に付き、去んぬる冬、小田原表へ罷り越し、掛け合い逗留中、空しく歳月を送り候も如何に付き、先年取り立て遣わし候、
塔の澤(の)福住喜平治方(の)向山、峨々たる巌窟、葛藤竹木伐り払い、焼き捨て、桜三千五百本余り、ならびに江戸四谷大久保名産(の)霧島三千本余り、八重山吹、駿州駿東郡御厨(の)紅霧島三千本余り植え付け候處、相州大住郡片岡村大澤政吉、当方年来相勤め居り候、湯本九蔵方へ養子に罷り越し居り、本陣の儀に付き、御領主始め大名、小名、貴人、高位の方々、御保養温泉の儀に付き、右同断、桜植え付け方、相願い候に付き、上段向き通り谷越え峨々たる岩石葛藤刈り捨て伐り払い、塔の澤同様(に)植え付け申しそうらえども、何れも彼の地に生じ候、桜木の儀に付き、相成るべくは、其の村方桜川縁り桜木の儀は雨引山楽法寺、丹誠を尽くし、天朝第一、大和国みよし野の桜、実生の儀に付き、当節は実拾い集め、此のしゅろの皮に包み、雨露の当たらざる縁下辺りに埋め置き、来春彼岸前後、蒔き付けそうらえば、実生疑い無き旨、伝授を受け申し候間、右桜木の下、刈り払い置き、近日落ちこぼれ次第、拾い集め置き下さるべく候、たとい一升二百文、三百文、いか程高値に相当たり候とも、右はみよしのの桜(の)種、彼の地へ差し遣わし申したく候間、此の段、間違いなく御頼み申し候、委細の儀は此の使いのもの申し述ぶべく候間、是れより御承知下さるべく候、取り込み早々、以上、
嘉永五年四月十七日 二宮金次郎
荒川泰輔様(青木にて)
この文書から、二宮尊徳は箱根「塔の沢」付近の山々に、多くの桜木等を植樹した様子を知ることができます。また青木堰付近の樹木は、日本一美しい吉野桜であると讃え、尊徳の植えた桜木のことにも意をとめ、青木の人々にこの桜木を大事に見守るよう期待を寄せています。
③ 二宮尊徳の位牌と山門
▲薬王院にある二宮尊徳の位牌
“誠明院功譽報徳中正居士”
大正7 年(1918)9 月7 日山門建立式典
▲薬王寺山門は二宮尊徳築堰の材料で建立
(大正7 年)(遺堰記念門)
④ 荒川泰輔の位牌と書状
▲荒川泰輔の位牌(栗嵜博家所蔵)
文久元年辛酉11 月6 日没
戒名隆峯院泰忍真翁居士 俗名 荒川泰輔
川副家(青木村領主旗本)家臣御趣法御出役当地にて死亡の為、栗嵜家に於いて葬儀を執り行ふ
▲二宮仕法地、茨城県新治、真壁両郡
(大和村青木村他)に1,550 石の
知行地をもつ旗本川副勝三郎頼紀の署名と花押(「尊徳」大木茂著より)
▲嘉永3 年(1853)二宮金次郎から荒川泰輔宛書状(廣澤光一郎氏所蔵)
「(前文略)川向う笠間領耕地に青木堰という字あり。堰の傍らに土取場という土地。元禄年間幕府領の時は、公費一回に人足三千余人、費用百五十両出資。(中略)
冬春の内、石枠に運び上げ、詰め普請行わないと用水維持出来ず。一村の紲・喉首と申す所なり。将来とも、堰普請を忘れず、永遠に怠らず、廃絶を懼れるべし。」と、青木村への思いを出張役人荒川泰輔へ述べています。
⑤ 青木堰遺構
▲二宮尊徳築堰の青木堰(小田原市報徳記念館蔵)
この用材で薬王寺山門が建立された。
▲尊徳が築堰した用材の柱(大国小)