将門伝説【1】
平・中丸木の地名
この地は、大字大国玉字平といい、新治郡衙(にいはりぐんが)(協和町古郡(ふるごおり)、奈良時代の郡役所)から南に広がる広大な平地の一角を占め、その広さは大戦中、飛行場が設けられたことからも伺い知れます。
集落の北側は低地で、古くからの谷津田(やつだ)を形成し、大沼を水源とする稲作は、中丸木をはじめとする大字大国玉の灌漑(かんがい)を共有し、歴史や文化を培(はぐく)んできました。
そして、ここに住む人々の精神的支柱として大国玉神社(延喜式社、神領20石75末社)が祀られ、五穀豊穣の守護神として信仰されてきました。
将門の時代、大国玉神社の主宰者としてこの地方に勢力を得た平真樹(たいらのまたて)の娘が将門の妻(君の御前)となったことや、父良将(よしまさ)の遺領をめぐっての争い、即ち「女論・地論」もこの地が遠因になっています。当然、平も大国玉の村々と同じくその渦中に入りました。
「平」は、平氏開発荘園として発達し、平時は田畑の耕作に従事し、一旦緩急あれば兵馬を整え参陣するという、半武半農の武士団の営所だったのです。
「中丸木」には、将門の本営を守る出城があったといわれていますが、この城は城郭(じょうかく)ではなく、柵(さく)、城柵(じょうさく)ともいい砦(とりで)を意味し、物見櫓(ものみやぐら)を要所に配し敵の攻撃から守る機能をもっているものでした。
また、一説に中丸木は城郭の丸ではなく、牧の転化語ではないかということです。牧は、馬・牛の放牧地と施設を意味し、朝廷の牧は平安中期には官牧から、豪族が経営する私牧(しのまき)が盛んとなり、この牧が武士団発生の重要な舞台となりました。
当時、中丸木は将門の軍馬の飼育、訓練の場だったとも言われています。
いずれにしても、平や中丸木の地名は平氏武士団の発生と深い関わりがあって付けられたものと思われます。
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▲将門薬師堂