いわせものがたり(平成13年度)

平成13年度

「森山台薬師堂」

 住吉神社を東の方角に坂道を下るとお堂がある。昔は千手院という天台宗の寺があった所で、松木四壁山とも言われる。
 現在は、二間四面の薬師堂があって、薬師観世音菩薩が祀られ、堂前の賽銭箱の上には木札で「五円玉でお願いします」と記されていた。
 古老の話によると、昔、何者かに仏像が盗まれて港から外国へ売られる寸前に発見され、無事久原の薬師堂に戻されたということであった。
 境内には一対の石燈籠があって、そこから南に参道が下っているのだが、昔は寺院というだけあって薬師堂の庭は広く、北側には二体のお地蔵様のほかに、馬頭尊や二十三夜塔の石碑群と共に、十九夜講と記された如意輪観音などの石仏が並び、宝歴・寛政等の年号も見受けられた。
 また、古老の伝えによれば、大きな方の地蔵尊は集落の墓地から移されたそうで、薬師様と共に今も集落の人々から信心され、祭りも行われている。

(平成13年4月発行)


「久原集落を歩く」

 「左甚五郎」一の弟子の作といわれる薬師如来像を祭る薬師堂から北へ、お富士峰を目指して坂道を登ると、「久原農村公園」がある。
 この公園は、子供たちの遊び場として、また、元気老人の運動の場・憩いの場として、多くの人々に利用されている。
 公園のベンチにたたずみ「ふと」見下ろすと集落は眼下に収まり、南を見やれば、筑波・加波の峰々が一望できる。
 公園の上には、集落の霊廟である如意輪観音の石仏や古い五輪塔が祭られている。
 さらにここから百メートルほど坂道を登ると、天王様といわれる八坂神社が鎮座して、青く透き通った水を満々とたたえる「お富士池」を覗き込んでいる。
 岩瀬町史の「延貞四年久原村差出帳」には、家数五十軒、総人数弐百人、男百十七人、女八十三人、馬十三匹、医師一人と記され、江戸中期においても戸数の多い集落であったことが偲ばれる。

(平成13年5月発行)


「虎丸坪と富谷観音」

 富谷観音への道は、現在、久原集落からの立派な道路が整備され、大型バスも自在に通行できるようになった。
 昔の参道は、筑波益子街道といわれる旧道で、この隅に大きな御影石の碑が建っている。
 碑には「茨城県百景富谷観音」と大きく書かれ、側には「謡曲桜川の桜」と「富谷観音」と小さく刻まれており、裏には寄進者の氏名、側面には昭和二十三年当時の茨城県知事「友末洋治書」と記してあった。
 この碑の前には、たくさんの花が植えられ、その片隅には高さーメートルほどの石柱が建っていて、北-小山寺・南飯田、東-岩瀬・真壁・笠間、西-益子茂木道と三面に記されてあった。
 これは、明治四十年八月、川井芳太郎氏建立の道案内の碑である。(古老の話によれば、富谷観音参道の道標として、当時の石材業者と思われる川井氏が建立したようである。)
 また、「虎丸」の地名は、城の虎口に当たるからという説であった。
 
(平成13年6月発行)


「富谷観音小山寺まで」

 富谷宿を七曲りして、久原ヘと向う旧益子街道を、宿の中ほどから北に足を進めると、小山寺の参道入口に至る。
 この入口のかたわらには、「文部省指定小山寺塔婆」と「聖武帝祈願所富谷観世音」の碑が建立され、そこから見上げると、椎の古木を交えたうっそうとした杜が、小山寺を包み、その姿に、改めて千三百年の歴史の重みを感じさせる。
 明治時代に造られたと伝えられる参道は、とても急坂で、本堂までの五百段近い石段の、御影石を担ぎ上げて築いた、先人の汗には、頭の下がる思いである。
 参道を登る途中東側には、天音姫伝説の「影向石」の岩があり、さらに登って仁王門に参拝。
 ようやく最後の石段を上り観音堂の庭に立つと、木々の間を通り抜ける涼風と、千年は越えているであろう、杉の大樹が迎えてくれた。
 
(平成13年7月発行)


「富谷観音 小山寺」

 天平七年、行基菩薩が開山建立したと伝えられる「小山寺」は、富谷山の中腹にあって、切り立つような斜面の、よくもこのような所に建立したものと、古人の偉大さにただ頭の下がる思いがする。
 現在の本堂は、元禄年間の再建と伝えられ、五間四面の四柱造りである。御本尊は、十一面観世音で行基菩薩が自らノミを振るって刻んだと伝えられ、安産子育ての観音様として信仰を集めている。
 また、堂内には多くの仏像と共に、県内でも数少ない寝釈迦仏の「涅槃像」がある。
 本堂側面の大きな絵馬も古い時代のもので、その表情はおぼろげにしか見ることができない。
 本堂西の他の中に、弁天様を祭る祠があり、その上には、片足を上げた踊る大黒天が祭られている。
 さらに、少し上には、昭和十二年建立の「会堂」がある。

(平成13年8月発行)


「三重塔付近」

 本堂の西には、近年、建立された水子地蔵尊の大きな石像があり、その奥には宗祖・伝教大師の報恩塔が建立されていた。
 そして隣は、安産・子育て・開運等の祈願所で、板東・秩父・西国の百観音をまつる百番札所となっている。
 境内でひときわ高くそびえる三重塔は、寛正六年(1465)下妻城主・多賀谷朝経が再興したと伝えられ、関東以北で室町時代にさかのぼる塔は、この塔と西岡寺・三重塔の二基だけである。
 明治三十九年に国宝に指定され、現在は国の重要文化財となっている。
 塔は、方三問、各層の中央に唐戸を配し、周囲は逆蓮頭親柱高欄付きの廻り縁、墓股の透かし彫りなど他に類を見ない優れたものとして、今日に伝えられている。
 小山寺の長い歴史の中では、極度に荒廃した時代もあったが、結城・多賀谷・大野各氏が改修に力を尽くし、特に大野治長は、豊臣秀吉の命により修復に当たり、蜀江錦の戸張を寄進した。
 また、秀吉より扉の寄進があったとも伝えられている。

(平成13年9月発行)


「小山寺仁王門」

 三重塔西側の丘に足を運ぶとそこは「ふれあい公園」として整備され、晴れた日は展望台から筑波・加波の山脈から遠く富士山も望むことができる。
 公園から再び東に足を進めると、三重塔の下に富谷山大崩れの跡がある。これは岩瀬町史「野村家永代年代張」天明六年丙午日記によると「七月十三日雨降り出し、十四・十五日と雨強く、十六日には雷雨となり、夜の大雨で観音大寺塔の上抜け出し候、塔の欄干押し破り、其の水寺前沢へ押し出し、神明山脇通り、田一面に材木押し出し、砂地に相成り候」と記され、今も語り継がれている天明の大飢饉の頃の爪跡である。
 この大崩れ跡の東が、仏法護持の金剛力士像が守る小山寺の山門になっている。
 山門は、昔は茅葺屋根の中二階造りで、仁王門と言われている。古くは、この二階に寝釈迦様と言われる「釈迦涅槃像」が安置されていた。
 仁王門裏手には、小山寺護神の倶利迦羅龍王の湧き水「延命水」が、いにしえの音色を今に伝えていた。

(平成13年10月発行)


「天の音姫ものがたり 上」

 今から千三百年の昔、富谷山の北側、長者窪に大伴伴官という長者が住み、財物は倉に満ち溢れ、愛する妻と幸せな日々を送っていた。
 唯一の悩みは、子に恵まれないことであった。
 そこで長者は、日ごろ信ずる観世音菩薩に「何卒、子供を授け給え」と祈願した。
 ある夜、夢に三重の塔に舞い浮かぶ天女が、妻の胎内に入るのを見た。
 すると、ほどなく愛らしい女の子が産まれたのである。
 これは、信ずる観音様のお授けと、天女と観音の一字を貰い受け、「天の音姫」と命名した。
 しかし、音姫三歳の折、病で母を失い、間もなく迎えられた継母に育てられた。
 音姫は、成長するに従い美しさをまし、その美しさは近隣諸国に広まり、遂には遥か遠い奈良の都にまで噂が伝わったのである。
 これを聞いた時の帝は、我が太子の后にと勅命が下がったのである。
 勅命を知った継母は、俄かに音姫の美しさが憎くなり、音姫には間男がいてふしだらな生活をしている、と長者に告げ口をしたが、信じてもらえなかった。
 そこで、継母は言葉巧みに家来を誘い、音姫の寝屋に忍ばせ、出てくるところを長者に見せた。
 長者は、妻に謀られたとは露とも知らず、烈火のごとく怒り、音姫殺害を別の家臣に命じた。  (つづく)
          
(平成13年11月発行)


「天の音姫ものがたり 下」

 そのころ、常陸国探題職に任じられた橘諸兄が、南台の城から四方を見渡した処、遥か西北の富谷山に、毎晩、五色雲の棚引くのを見て不思議に思い、従者と共に富谷山に登ると、中腹の影向石の上に美しい少女が座っていた。
 怪しんだ諸兄が立ち寄り、少女に子細を訊ねてみる
と「私は、北の長者といわれる大伴俊房の娘で音姫と申しますが、継母のそしりによって、この場所で殺されたと思いましたが、母の形見の観世音によってか、夢の如く座しておりました。」と語った。
 驚いた橘諸兄は、直ちに音姫を連れ都に上り、参内して帝にその委細を言上したのである。
 話を聞いた帝は、早速、子細を確認するため長者の館に勅使を出した。
 恐怖に慄く後房は、事実を認め、埋めた首を掘り出し、勅使に差し出した処、それは十一面観音の首であった。
 それを聞いた帝は、驚いて、音姫が母親の形見と五歳のころから肌身放さず持っていた守り袋を開けさせた。しかし、観世音の顔をみることはできなかった。
 帝は、これは観世音の大きな慈悲と感心し、音姫を太子の妃と定めたのである。
 その後、即位したこの太子こそが聖武帝であった。
 帝は、音姫に准三后の位を授け寵愛したが、程なく重い病に倒れ、この世を去った。
 夫人の死を悲しんだ聖武帝は、夫人の冥福と国家安全を祈願するため、行基菩薩に命じて、富谷山に堂塔を建立した。
 本堂には、一丈六尺の十一面観世音を刻ませ音姫の守り本尊を納め、三重塔の下には、音姫の御骨を納め、釈迦文殊普賢の像を安置したと伝えられている。
 
(平成13年12月発行)


「富谷城始末記」

   
 富谷山のふもと、富谷分校の跡地の片隅に「富谷城跡」の標柱がひっそりと立っている。
 この城は、天正年間(1573~1592)に益子重綱の築いたもので、笠間氏の橋本城と対峠した益子氏の支城である。
 富谷地区には、今も御城と呼ばれるところや坂下、虎丸といった地名が残っており、昔の面影を伝えている。
 関東古戦録には、天正九年の富谷城主加藤大隅と橋本城主谷中玄蕃との争乱が記されている。
 それによると笠間領と益子領の境界騒動から、益子方の百姓が打殺され、それから双方の兵が度々小競り合いを繰り返していた。
 天正十一年には、谷中玄蕃が橋本の兵を集め、大屋沼近くに出陣。
 これに対し、加藤大隅父子は、軍を二手に分けて奮戦し、敵将谷中玄蕃を中村源七郎らが討ち取り、笠間方は敗走した。
 しかし、翌天正十二年谷中玄蕃の一周忌に、谷中孫八郎は、安達大膳ら百数十騎を引き連れ弔い合戦に出陣した。
 谷中軍は、桜川近くで加藤軍と戦い、父のあだ中村源七郎を討ち、加藤軍を散々に打ち負かし、富谷城下に攻め込んだ。
 しかし、加藤軍は門を閉じたまま出てこないため、あえて戦闘には及ばず兵を引いた。
 この戦で谷中軍は、中村源七郎をはじめ三十六騎を討ち取り、弔合戦を勝利したのである。
 その後、孫八郎は名を玄蕃と改め、橋本城主となった。

(平成14年2月発行)


「富谷山 大雲寺」

 富谷観音の参道を、途中、東へ進むと「曹洞宗大雪寺」の石門が見えて来る。
 北へ伸びる緩やかな坂道は、高台の山門、そして、屋根に大雲寺と記された本堂へと案内してくれる。
 唐門風の山門わきには、富谷天満宮と石碑に刻まれた天神様が祭られている。
 本堂東側に庫裏が連なり、西側には、弘法大師作で結城晴朝公の守り本尊と伝えられる子安地蔵尊が祭られた地蔵堂が建立されている。
 大霊寺の開基・結城政勝は、結城家の将来を託すべき嫡男の死に逢い、無情を感じて、頭に髪を残したまま僧となり、その菩提を弔うため、富谷郷に一寺を建立したと伝えられている。
 そして、政勝の法号の大雲藤長の「大雲」をとり大雲寺と号したのである。
 現在も結城政勝の尊像が伝えられている。
 天文二十一年の開山住職は桂室芳師。現在の住職小野通元師は、二十九世に当たる。

(平成14年3月発行)

古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」