【番外】 『プレ桜川遺産めぐりツアーin青木』


よみがえる金次郎『二宮尊徳』top
【壱】~【五】【六】~【壱拾】【壱拾壱】~【壱拾五】【壱拾六】~【壱拾九】【弐拾】~【弐拾壱】【資料】【番外】


 この『プレ桜川遺産めぐりツアー』ですが、実は今回で3回目の開催となりまして(この名前になってからは始めてですが、しかも勝手に命名(^^;))、昨年11月の『ヤマザクラモデルルートトレッキング』(岩瀬地区)、『登録文化財撮影会』(真壁地区)に続くものです。

 今回は『青木仕法』(大和地区)ということで実施しました。

 日本人なら、誰でも知っている『二宮金次郎』ですが、ここ桜川市(旧大和村青木)でも、大雨のたびに氾濫していた桜川に青木堰を作るなど、疲弊した青木村を再興したことで知られており、その功績が伝えられてています。

 ということで、案内のとおり郷土史家であり、二宮尊徳研究に造詣の深い舘野義久先生にお願いして勉強会を開催しました。

 あいにくの雨でしたけど(^^;)

 梅雨の時期なので、仕方ないですね。。。


青木仕法

 そんななかでも、桜川未来塾のメンバーはもちろん、飛び入りでJR水戸線大和駅の駅舎を利用した地域おこしを行なっている『いきいき駅サイト』のT中さん、桜川未来塾のメンバーであり、活動にご協力いただいている県工業技術センターのF沼さんにもご参加いただきました。


▲まずは、『青木仕法』ということで、周辺の状況などを交えての”講義”です。

 たいていこのようなイベントなどの場合、天気のことが一番気になるわけですが、今日の雨模様のように、人間にはどうしようもない、自然に対する日本人の思考(東洋的な思想)が、八百万の神など多神教、多様性を受容する思想を生んだのだというようなことから始まりました。
 それから何事も、天(=時)・地(=地の利)・人(=和)ということがキーワードになるというようなことを話していただけました。

 当時(江戸時代末期)の青木村は、重税や農村基盤の荒廃により、いくら働いても報われないことに村人たちは自暴自棄となり、人心も荒廃していたわけです。
 しかし、二宮尊徳が、たまたま近隣の桜町陣屋にいたという(天=時)、青木村という地理的条件(地=地の利、土地は豊かであった)、なんとかしなければならないという村人たちの団結(人=和)があったればこそ、青木堰の築堰を始めとした基盤整備、農村への経済観念の浸透がうまくいったのでしょう。

 江戸末期、度重なる桜川の氾濫による農地の被害などにより、青木村(現桜川市青木)は最大130戸はあった世帯が、40戸を下回るまで減ってしまいました。
 もう、領主や住民の力ではどうしようもないところまでいっていたわけです。そこで当時たまたま現在の栃木県二宮町の桜町陣屋で農村復興を手懸けていた二宮尊徳の話を聞きつけた青木村の住民が、尊徳に村の復興を嘆願しました。

 このとき、尊徳は村人を試したそうです。
 基盤整備をしても、資金を提供しても、そもそも本人たちにやる気があるかどうかが問題であって、それを確かめるため、嘆願に来る村人たちを何度も追い返したそうです。
 まずは、荒れた農地に繁茂している萱を全て刈り取り、綯わないをし資金を作ることを求めたそうです。
 これによって、他人(二宮尊徳)に頼むだけでなく、当事者である村人たちの青木復興に対する気持ちを確かめたわけです。
 と同時に、荒廃した農村を復興するには現実として多額の資金を要するわけです。この資金を調達する目的でもあったわけです。また、これは『恒産なければ恒心なし』(経済的な余裕がなければ、心の余裕もありえない)ということを教えるためであったのではないかと思われます。

 これは、いつの世も通じることなのではないでしょうか、よく地域振興とか活性化という言葉を耳にしたり、いろんな場面で話題にのぼります。地域振興には、やはり最終的に経済に結びつかなければならないと考えさせられました。

青木仕法については、
さくらがわーるどゼミナール『よみがえる金次郎』をごらんください。

 という下知識となるお話を聞きながら、どしゃぶりの雨のなか、現地に向かいました・・・


現地散策

 まずは、大正15年の青木堰改修のおりに、廃材となった木材を門の柱としてつかっている薬王寺を訪ねました。


▲両側の柱がそれです。
 よーく見てみると、見た目を考えれば、とても柱としては使わないような形の木材を使用しています。
 尊徳ゆかりの品を使っているというところに、いかに尊徳が尊敬されていたのかが伺えます。そして現在となっては数少ない尊徳ゆかりの品もでもあるわけです。


▲二宮金次郎がお出迎えです。
雨の中でも、しっかり薪を背負って読書中です?(^^;)


▲薬王寺の住職さんからお説教です。
 もとい、大正15年に青木堰を改築した際に、いらなくなった木材をお寺の門の柱に使ったことや、その際に尊徳の位牌を納めたことをお話いただきました。

つづいて、場所を移し青木堰に移動です。


▲雨の青木堰跡
 なんと、左側のサクラの木の記述が、実は金次郎の日記にあるということが分かりました!!
 しかも、なかなか”血筋”のよいサクラの木かもしれないんです!
 今は河川敷から離れた場所に数本残る程度ですが、昭和20年代前半までは、たくさんのサクラが植えられていたそうです。
 しかし昭和20年代前半の台風被害の後に、根の張りが浅いサクラは、川の土手を傷めるとの理由から伐採されてしまったそうなんです。。。
 地元青木の方々も、それを知ってから、桜川に桜を植えちゃおう!と盛り上がったきたそうなんです。こちらに関しては、しかるべき方々にご相談しようと思っとります!

またまた、場所を移して先ほどの薬王寺脇にある地区の集会所になります。


▲嘉永3年作図の青木堰設計図
 なかなか、見れるものではありません!
 以前、とある大手の建設会社が、ぜひ譲ってくれと持ちかけたこともあったことからも相当に貴重な品なんです。
 嘉永3年といえば、西暦1850年ですので、約160年前になります。
 尊徳が最初に青木堰の改修を手懸けたのは天保4年(西暦1833年)ですから、その後に書かれたようです。
 設計図の中に書いてある文章を読めば分かるのでしょうか。。。
 でも、なにしろ”達筆”なもので、、、(^^;)
 解読は、プロに頼んでみようと思います。

 今回のツアーを振り返ってみて、現代社会が抱える問題の解決策を考える上でも、地域振興にも通じるお話を聞けたことはとても勉強になりました。
 まあ、むずかしい話はおいといても、二宮金次郎(尊徳)のことは知っていても、地元桜川市の青木にこんなにもゆかりの場所、品、言い伝えがあることに、参加者の皆さんは驚いていたようです。
 それだけでも有意義な『プレ桜川遺産めぐりツアー』となったと思います。
 サクラの話、設計図の保存について新たな展開もありそうですので、面白くなってきました!動きがありそうですので、ひきつづきレポートしてきます!

[スタッフ]



←【資料】      よみがえる金次郎『二宮尊徳』top →