平成2年度
「要石と磯部遺跡」
周りを社に囲まれた磯部稲村神社は、古くから多くの人々の尊敬を集め、桜児物語等の伝説とともに謡曲桜川のh2能や県文化財指定・木造狛犬のあることでも有名である。
また、社殿の北側にある要石は、茨城の伝説としても取り分け有名である。
昔、常陸の地中深く住んで、たびたび大地を揺るがした大鯰がいた。その鯰のしっぽを磯部の要石ががっちりと押さえ、頭は鹿島にある周囲が六十センチ程の小さな石が、深く根を下ろして押さえている。(鹿島の石は、鹿島の神が天からお降りになった時に座られたと言われている)
この二つの石が鯰をしっかりと押さえてくれているので、茨城には大きな地震が起きないと言われている。磯部の要石が凸形、鹿島の要石が凹形で、二体の石を合わせて陰と陽・男根女舟を表したものと言われており、磯部の要石は大昔、祭りに使われた石棒はないかとで推測されている。
神社北側にある東中の校庭の片隅には、古代人の住居跡が復元されており、東中建設の際には、多くの縄文遺跡が発掘された。
また、近くの神官・磯部家には、磯部台地で発見、採集された、多くの石器や土器が大切に保管されている。
今月から三ヵ月の予定で発掘調査が進められている磯部裏山遺跡でも、貴重な遺物が発掘されることを期待するものである。
(平成2年4月17日発行)
「桜児物語の里」
磯部神社から西北へ道を下ると御手洗の池。ここを更に西ヘ進むと、近年まで中原家地内に存在したといわれる姥ケ塚にたどり着く。
この塚にまつわる悲話として知られるのが「桜児物語」。姥ケ塚は、桜子の母の墓と伝えられる。そしてこの「桜児物語」からつくられた謡曲・「桜川」は、能舞として現在に残っている。
昔、九州は日向の国に桜子と呼ばれる少年と母親が住んでいた。
この母子は、肥後の国守であったが、弟に所領を奪われ、ようやく日向の国まで逃れ、月も照るような荒家に雨露をしのいでいた。
桜子は、この窮状にしのびず、母親に孝行をと思い自身を人買いに売った。
ある春のことであった。磯部の桜が満開になり、里人が花見に浮かれている時、狂女が面白いことをしているという噂が広がった。
折しも磯部寺の住職が弟子を連れて花見に出掛けたが、その中に桜子も混じっていた。
さして、住職に従った桜子が見た狂女は、掬網を持って桜川に流れる花片を掬っているが、紛れもなく日向の国に残した母であり、二人は涙の対面をしたという。
やがて桜子は、平将家として元服。国守の位まで昇進したという。
現在、宮崎県延岡市には桜子の碑と母の像が建立されている。
(平成2年5月22日発行)
「磯部ケ原の血戦」
橋本城の片見晴信を敗った太田三楽は、一挙に中郡を攻略しようと、総勢二千余の大軍を従えて橋本から磯部の台地に布陣。
これを知った下館・久下田の城主・水谷幡竜斉は、総勢千二百余を三軍に分け、太田の大軍を全滅せんと、岩瀬から桜川上流にかけて布陣した。
犬田の山裾から橋本城を目指す水谷四郎・次郎の一隊、桜川上流を渡り、磯部明神に近づかんとする水谷勝基の一隊。
これを防がんとする長倉遠江を将とする太田勢、橋本を中心に桜川一帯、両軍風のごとく散っては集まり、集まっては散り、いつ果てるとも知れなかった天正十四年九月十日、磯部台地に布陣した太田三楽の軍から一人の騎馬武者が、太田の本陣を目指して躍り出た。
そして「我はこの磯部の住人、磯部豊前守忠光。我と思わん者出会え候へ……」と、長槍を振って渡り合うこと数十合、磯部の刀が鍔元から折れてしまった。そこで両人は、いざ組まんと馬上に挑み、もみ合ったまま落ちたが、立ち上がったのは渡辺源蔵だった。
この一騎打ちが終わると両軍の間に和議が成立。三楽は片野城(八郷町)へ帰った。
(平成2年6月19日発行)
「稲集落と狐塚古墳」
磯部、裏山遺跡の東に散在する集落が稲村である。
天正十七年、笠間綱家が宇都宮氏に攻められ、笠間城代・玉尾美濃守支配になった時代、それまで一村であった磯部・稲村が分村して二村になり、鎮守札も集落の旧家、秋山氏の氏神である香取神社を稲地区の氏神としていた。
しかし、現在は磯部稲村神社に合祀されている。
同地区は、北に桜川、南に開拓と呼ばれる平原をもった地区で、明治初期には十戸足らずの戸数であったが、現在は、この開拓の丘にいくつかの近代的工場が建設され、今や新時代の息吹きの先駆けとなりつつある。
この丘の中央に、南に下る狭い道があり、そこを100メートルほど下ると、前方後円墳の狐塚古墳がうっそうとした杜に包まれてある。
昔、この辺りは果てなく続く森林で、塚周辺には多くの狐が住みつき、しばしば人を化かしたそうで、林の中をぐるぐる回る人や近くの池で「おお深いっ!」と、もがく人びとが多く、それを恐れた村人が、狐の好物の油揚げを古墳近くに運んでは、化かされないように頼んだそうである。
(平成2年7月24目発行)
「男体山城攻防」
今泉地区の東にそびえるのが吾国山、その東の峯が男体山故城である。
今は昔、南北朝時代最後の決戦といわれた古戦場でもある。
永徳二年、関東管領足利氏満に背いて南朝の兵を挙げた小山城主・小山義敵と若犬丸親子は、上杉朝宗の率いる北朝方軍勢に攻められ、義政は自殺、逃れた若犬丸は小田の城主・小田孝朝に身を寄せた。
そして孝朝の跡継ぎ小田五郎藤綱と共に男体山に南朝の旗をひるがえし、足利幕府の追討軍、上杉朝宗の大軍と対決した。
この戦いに、遠州の今川氏に仕えていた秋山三郎光徳は、同族の縁で小田五郎と共に男体山に立てこもり、北軍の上杉軍を大いに悩ませた。
しかし、関八州より動員した鎌倉管領の大軍に、真壁―八郷境の上曽峠を押さえられて兵糧の道を断たれてしまい、一年近く続いた激戦もついに終わりを告げた。
そして、小山若犬丸・小田五郎は自害、秋山光徳は討ち死にした。
この時、ようやく逃れた秋山民部光成、その子孫が秋山修理之助といわれ、後に結城晴朝より稲の地に所領を受けたといわれる。
(平成2年8月28日発行)
「西南戦争とふるさと」
NHKテレビで放映中の大河ドラマ「翔ぶが如く」も、いよいよ西南戦争の場面が登場するが、この戦は日本最期の内戦である。
明治十年二月十七日、西郷隆盛の下、桐野利秋・篠原国幹らの率いる私学校生徒や薩摩士族一万三千に九州各地からの不平士族が加わり、四万数千の大軍で「政府に尋問の筋あり」と記した旗をわなびかせて鹿児島を出発、二月二十一日には熊本城を包囲した。
が、熊本鎮台司令官・谷千城の守備は固かった。
一方、官軍側は征討総督に有栖川の官、征討参事・山県有朋、征討参謀・川村純義以下四万余り、さらに軍艦十一隻と当時の新政府の現役部隊であった四万人すべてを、この戦に投入した。
我が岩瀬からも、水戸地区出身で東京鎮台歩兵第二連隊所属の入江徳兵衛が城山攻めに参加している。
この時の連隊旗は、後の陸軍大将・乃木希典が連隊長として出陣した際の軍旗であると伝えられている。
(平成2年9月18日発行)
「鷺谷昌恒の西南戦争(上)」
代々神職を努めていた上城の鶯谷家には、西南戦争時に東京警視局(現在の警視庁)に勤務していた鶯谷昌恒の「九州征討記」という日誌が残されている。
それによると、世に名高い田原坂の攻防は、三月三日から二十目までの実に十七日間にわたる死闘で、西郷軍の切り込み隊に対し、にわか仕込みの官軍の農民兵は、白兵戦となると苦戦の連続であったという。
そこで政府は、刃には刃をと、士族出身者である警世局巡査を九州ヘ向かわせたのであった。
鶯谷昌恒らの警視隊一行は、三月三十日に皇居前に集合し、明くる三十一日、外国汽船で出航。四月六日に別府に上陸し、
西郷軍と戦うべく筑後(福岡県)へ進み、四月十三日に坂梨峠で応戦。朝六時ごろから正午近くまで激しく戦い、ようやく敵を退却させた。
そしてしばらくの間熊本に着陣した昌恒は、西福寺で労を癒した後、五月一日には水俣の西郷軍を舟で急襲、敵を退却させて銃三丁・火薬一駄・金子百二十円を分捕った。
しかし、五月七日、大関山に陣していたところを攻められ、多くの死傷者を出して水俣まで退却、それから五月一杯は、水俣を中心に一進一退の激しい戦闘が続いた。
(平成2年10月23日発行)
「鷺谷昌恒の西南戦争(下)」
ようやく水俣を制圧した鶯谷昌恒ら警視局巡査隊は、西郷軍と戦闘を繰り返しながらも、五月二十日には熊本と鹿児島の国境・石坂峠まで攻めたが戦いは厳しく、一進一退の末六月十三日、薩摩の山野村へたどりついた。
この山野村での戦いも政府軍には厳しい戦いで、昌恒らの隊長・副隊長らも西郷軍に取り囲まれてしまい、昌恒ら隊士の決死行でようやく難を逃れることができた。
しかし、巡査隊は再び石坂峠まで退却。
ここも西郷軍に渡して、六月十七日から十九まで狸山に番兵したという。
昌恒らの巡査隊は樫山で休養の後、政府軍と共に「象の港」の西郷軍を攻め、薩軍の捕虜六百五十人余という大勝利を収めた。
一方、西郷軍は人吉・延岡と大敗して投降者が相次ぎ、武器・食糧などの欠乏に苦しみ、次第に士気も沈みがちになり、戦いは政府軍有利に展開していった。
六月二十五目、昌恒ら巡査隊は鹿児島に到着。そして休む間もなく宮崎へと進軍し、都城の激戦に参加した。
さらに、八月六日には佐土原(宮崎県)を占領して、八月十一目の汽船で東京へ帰ったのであった。
(平成2年11月27日発行)
「大月集落」
小ノ池の北西に祭られている「愛宕神社」は、火伏せの神として大月集落の尊敬を集め、例年一月二十四日には、集落こぞっての「甘酒祭り」が執り行われている。
伝えによれば、その昔、稲方面から飛び火した山火事が大月集落を襲って大変な被害を受けたので、火難除けの神である愛宕さまをこの地に祭ったのが発祥といわれる。
ここから北へ進むと一本松。現在松はないが、二十三夜の供養塔が建立されており「右坂本クワンヲン道」と記された道標にもなっている。
この道標を右に折れると、集落の鎮守である「甲神社」があり、祭神として大己貴命が祭られている。
この集落には、「長堀」の姓が多く、その先祖に、笠開方で「田野城」を守っていた長堀律師松光なる地侍がいたと、記されている。
また、以前「柳沢地区」には三軒の水車かおり、道の傍らには今も水神様が祭られている。
(平成2年12月25日発行)
「泥棒除け地蔵尊(坂本)」
昔、大月から坂本観音へ通じる道は、坂本の小高い丘を登って下る山道が本道で、その丘の上に墓地があり、そのかたわらにお地蔵さんが祭られている。
このお地蔵さんは、元禄三年に建立されたそうである。
ある日このお地蔵さんの持ち主である藤田家に泥棒が入り、嫁いだばかりのお嫁さんの品物がごっそりと盗まれたが、あいにくお嫁さんは里帰りをしていたため、だれにも気付きませんでした。
夜が明けて、泥棒に人られたことを知った家人が騒いでいると、近所の人が「小ノ池に大風呂敷が捨ててある」と伝えてきたので行ってみると、それは紛れもなく藤田家の品物でした。
ところがどうしたことか、そばにお地蔵さんの頭が包みを守るかのようにあるではありませんか。
泥棒がお墓のそばを通り抜けた時から「ドロボー返せー」と追いかけられ、振り向いてみると、丸くて白いものが空を飛んでくるので怖くなり、荷物を投げ捨て、やっとの思いで逃げたという話が広まりました。
それからというもの、泥棒除けのお地蔵さんとして敬われるようになったということです。
(平成3年1月25日発行)
「小塩集落」
古く海浜よりの塩街道の宿駅に、塩の名前の村く地名が残っているといわれ、小塩の地名もその名残ではなかろうか。
小塩集落の中央、警察官駐在所東側には「義民地蔵」の案内板が建っており、その奥に大小六体の地蔵尊が祭られている。
案内板によると、江戸中期の寛延二年、年貢減免嘆願の先頭に立って処刑された磯部村・亀岡村・富谷村の名主三名への謝恩と慰霊のため建立されたものといわれ、現在も、毎年一月十六日には地区の女衆たちによって、盛大な慰霊祭が行われている。
この集落の北側は、小高い台地になっており、そこには地区の鎮守である「高房神社」が祭られ、境内には「百観世音菩薩」や「山の宮」など六社が祭られる、静かなたたずまいの社である。
この神社は、女の神様ともいわれるが、祭神は武葉槌命といわれている。
また、江戸時代の差出帳によると、小塩村は元禄十五年の石高百十八石、延享四年の石高百二十石、戸数十二軒とある。
(平成3年2月19日発行)
「いわせ義民伝(上)」
延享四年、笠間八万石へ日向国(現在の宮崎県)から国替えになった牧野貞通は、京都所司代の要職にあったため、笠間へ足を入れることなく寛延二年九月十三日、病により没した。
それからーカ月後、山外郷農民一揆は起こった。
牧野家が移ってきた寛延元年も田畑は不作であったが、百姓たちはどうにか年貢を納めることができた。
しかし、寛延二年は前年を上回る不作であったにもかかわらず、国替えなどの物入りを税によって賄おうとした藩は、過去五年間の年貢を定免制により取り立てようとした。
この年は、夏から天候不順で早霜が続き大凶作は間違いなかったが、すでに検見願いの時期を失し、百姓は苦しい立場に立たされていた。
磯部村の名主・磯部清太夫は亀岡村の名主・萩原太郎左衛門と相談。
秋も深まった十月十三日、大岡村の鹿島神社前に山外郷の代表が集まった。
ここで農民たちは、富谷村の名主・藤井佐太郎を中心に年貢減免要求を決議して、磯部・萩原・藤井の三名主の呼び名で、明くる十四日、藩への強訴決行を決めたのであった。
(平成3年3月19日発行)
古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」目次