将門伝説【4】

将門伝説【4】

君の前(君子)の死

 承平7年8月6日、伯父良兼、貞盛等の連合軍は、突然、常陸・下総の国境「子飼いの渡し」(小貝川・千代川村)に押し寄せました。
 当時、将門は将兵を休ませるため、それぞれの営所に帰省させていたのです。兵力の不足と不意を突かれたため、最初の敗戦を喫しました。

 将門は、敵の攻撃を巧みに逃れ、猿島郡葦津江(飯沼の一部)に隠れ、妻の「君の前」は茂みの深い広河の江(飯沼)に侍女と共に潜ませました。痩せども、将門を捕まえることができなかった良兼軍は、次第に囲いを解いて引き上げを開始しました。

 これで安心と君の前は、葦の茂みから抜け出し、将門の隠れ場へ合流しようとしました。その時、歩哨に発見され、良兼の陣営に引き出されました。
 「将門はどこにいるのか、隠れ場を話せば、命を助けてやる。」と迫ったが「どこにいるのか教えていただきたいのは、私の方でございます。」と、どんなに責められても、首を横に振るばかりでした。烈火の如く怒った良兼は、配下の者に「斬れ!」と命じました。

 こうして、将門最愛の妻子は、広河の江で斬殺され、沼地を血に染めました。将門と再び会うことなく、若き命は儚く散りました。
 三千余反の麻・絹・財貨は良兼軍に奪われ、侍女たちも辱めを受けました。君の前の亡骸は、後に将門の手により、生まれ故郷の大国玉に葬られたといいます。

 前大掾源護は、三人の息子と常陸大掾国香が、将門及び平真樹(君の前の父)に殺されたことについて、京の政庁に訴えました。

 承平6年(936年)10月17日、将門は上京し検非違使(けびいし)に出頭、ことの経緯をありのまま単刀直入に申し立てしました。
 「その罪軽からず」ということでしたが、糾問(きゅうもん)は朱雀天皇の元服という慶事により、恩赦に浴し無罪ということになりました。将門の心にわだかまる暗雲も晴れ、早々都を辞して帰途に着きました。

 この上京で、彼が見た都の姿は、太政大臣藤原忠平の全盛、その一族でなければ親王や主族でも官途の望みはなく、名のみの境遇でした。生活は虚像に満ち、魑魅魍魎(ちみもうりょう)(ばけもの)の輩が徘徊していたのです。
 脂粉をこらし几帳(きちょう)の陰で姿態を繕(つくろ)う痩身(そうしん)の京女、気位ばかり高く将門には好きになれないタイプの女たちでした。

 それにひきかえ、筑波山麓に住む人間には、額に汗し手に豆して荒野を拓き、収穫に浸る喜びがありました。嬥歌で知った君の前の熱き胸、全身で受け止め抱き甲斐のある女、京の女にない情熱が伝わってきました。
 “帰りなんいざ、田園将(まさ)に蕪れんとす、胡(なん)ぞ帰らざる”(陶渕明)の心境、帰心矢の如し、君の前のいる坂東へ、孤高の将門を癒してくれるのは彼女だけでした。

文:舘野義久(大和村教育委員)

取材協力
浜田祐造さん(NHKディレクター)


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