よみがえる金次郎【六】~【壱拾】


よみがえる金次郎『二宮尊徳』top
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【六】青木堰
【七】疲弊する青木村
【八】名主舘野勘右衛門
【九】尊徳の叱責
【壱拾】尊徳の金銭感覚



【六】青木堰


 二宮尊徳が築堰(ちくせき)した「青木堰」は、桜川の上流青木地内にかかる堰です。ここの土質は、表土が粘土のうえに、大雨で流れた黄土や土砂が積み重なった沖積土からできています。
 そのため、洪水になると氾濫し、大きな被害を起こしますが、水さえあれば見事な水田が形成され、良質の米を産します。

 ところで、はじめてこの桜川に、青木堰が設けられたときのことを記す史料が見当たりませんが、恐らく戦国大名の領内経営の一環として構築されたものと思われます。
 青木村が幕府領となり、真岡代官所(真岡市)によって、元禄15年(1694)に行われた堰普請(せきぶしん)の史料を見ますと、表1のとおりです。

 この堰普請は、真岡代官中川吉左衛門によって行われ、普請奉行は田沢源右衛門でした。また翌16年には、永12貫248匁(もんめ)、人足2452人半が堰普請の費用として追加されています。
 幕府領時代は、このような大規模の堰普請が行われましたが、宝永5年(1708)旗本川副新右衛門頼賢の知行地となって以来、代官所の支援はなく、1ヶ村限りの負担で堰修理をしなければなくなりました。

 もともと青木村の水の便は悪く、青木・羽田・犬田の山並みからの水量は細く、青木の耕地の大部分をまかなう「青木堰」の維持管理には過大な負担を強いられてきました。この用水にしても十分な水量ではなく、強い雨が降るたびに堰は決壊、そのたびに堰や堤防は築き直さなければなりません。

 それでも、この近在の村々は幕府領(天領)だったので、費用負担は青木村を含めて関係地域全体の負担とされていたのです。そのため青木村の負担は、年に100両位で済んでいました。

 それが幕府領から旗本領となったのです。幕府はもう堰の費用の負担はしてくれません。「すべて、川副殿一村負担で行え」ということになったのです。
 これは村民にとっては死活の一大事、生産性の低い米づくり、毎年堰の修復費用を課せられ、そのうえの年貢納め、収入が少ないのに過大な支出を求められることになったのです。

 現代流で言えば、国や県が管理していたものを、一小自治体にその責任を押し付けたということです。そのうえ、旗本の治政能力のなさが一層村民を苦しめるのです。
 生産性を高め農民の暮らしを保障するという、抜本的な政策を抜きにして、堰の費用を負担させるという、間違った自己責任を押し付けたのです。そのため、旗本川副領となった青木村は、次第に疲弊していくという悪循環の繰り返しとなるのです。


▲改修された現在の「青木堰」


[文:舘野義久]



【七】疲弊する青木村

 稲作の命は水、その水源は桜川にかかる青木堰、この堰が洪水のたびに破損するということになると、米に依存する農民の生活は根底から破壊されます。

 川副氏という小旗本領では、堰の修復は不可能、「このままでは、村は無くなる。」村人の誰しもそう思うようになりました。

 当時の堰は、現在の所よりやや下流、低い所に設けられていたため、水の圧力を受けやすく、破損する率も高かったのです。もっと上流の鍬田村(岩瀬町・笠間藩領)から取水すれば、水量も多く、堰の修復も容易ではなかろうかという考えが浮上してきました。(後にこの考えは、二宮尊徳によって実現される。)

 文政11年(1828)名主・村役や、桜町陣屋(二宮町)に二宮尊徳を訪ね青木堰の修復調査を依頼します。島村与惣兵衛(桜町領主宇津氏の家臣)、西沼村丈八(尊徳の門人・土木工事に長ける)の調査から水門の高さ2丈7尺5寸(約8.5メートル)、長さ570間(約1,100メートル)の堀工事等の費用を含め、300両という見積もりが示されます。

 これは真岡代官所も認め、笠間藩や鍬田村とも了解がつき、工事費300両の調達さえできれば、工事が始まることになります。しかし、金子(きんす)の調達が思うようにいかず、頓挫(とんざ)してしまうのです。
 
 そこで、村方は西沼村丈八の案内で、尊徳に青木堰修復の借金を申し込みますが、桜町復興事業の多忙を理由に断るのです。そのうえ、悪いことにこの計画に理解を示していた、真岡代官田口五郎左衛門が転勤、代官元締(もとじめ)(会計)の内田金兵衛と、木俣庄蔵が病死するという不幸に見舞われ、堰の計画は見通の立たないまま、時間が過ぎていきます。その間、村の疲弊(ひへい)は進み、人心は荒廃していきます。

 元禄時代130軒もあった家が39軒になってしまうのです。潰(つぶれ)百姓、逃散(ちょうさん・領主の過重な年貢に耐えられず、村から逃げること。)が続き、残る農民も生活は苦しく、一部には自棄(やけ)になり博奕(ばくち)に日を過ごすようになりました。田畑山林は荒れ、狐狸(こり)、猪が住み、萱(かや)・芒(すすき)が生い茂り、この有様を青木神社神官大和田山城方に立寄った旅の僧は、

「家ありや 芒の中の 夕けぶり」

と詠みました。夕けむりが立っていたので、家のあることを知ったという程、荒れていたのです。

 天明7年(1787)には野火を発し、北原坪32軒のうち1軒を残し全焼、残った1軒の弥五郎は青木村を去り、物井村(二宮町)に移住しました。
 「このまま座して待てば、村は滅びる。村の復旧は二宮金次郎様にお願いする以外にない。」と、名主舘野勘右衛門は決断、身命を賭して村の立て直しに立ち上がるのです。
 村民一同を屋敷に集め、村のおかれている厳しい状況を説明、一致して行動することを誓うのでした。

 天保2年(1831)11月30日、師走の迫る寒天の朝、名主勘右衛門一行は37名の連署を懐(ふところ)に、桜町陣屋の二宮尊徳へ嘆願書を提出するのです。


▲はじめの青木堰は、現在の堰よりやや下流にあった。堰の遺構が残っている。
[文:舘野義久]



【八】名主舘野勘右衛門


 天保2年(1831)11月30日の早朝、この日は陰暦だから、今で言えば12月の末になる日です。この頃は晴れた日でも、日光颪(にっこうおろし)の空っ風が吹きつけ、骨の髄までしみとおる寒気の季節です。その日は生憎(あいにく)雨、冷たい霙(みぞれ)が頬を打ちます。

 前途に不安を抱きながら、名主舘野勘右衛門一行は蓑(みの)に菅笠(すげがさ)の出で立ちで、二宮金次郎(尊徳)のいる桜町陣屋(二宮町)をめざしていました。
 勘右衛門の懐中には油紙に包まれた青木村37名連署の嘆願書が入っています。この嘆願書には村の命運が懸かっていたのです。
 
 その嘆願書とは、次のようなものでした。
 
「青木村荒地起返難村復旧仕法取行方嘆願書(あおきむらあれちおこしがえしなんそんふっきゅうとりおこないかたたんがんしょ)」という表紙、書き出しは「乍恐以書付奉願上候事(おそれながらかきつけをもってねがいあげたてまつりそうろうこと)」ではじまり、

「川副勝三郎知行所(ちぎょうじょ)である常州真壁郡青木村名主、組頭、百姓一同お願い申しあげます。私どもの村は、およそ7、80年以前家数130軒ありましたところ処、洪水により桜川用水堰が大破、普請行届(ふしんゆきとど)かず、村は困窮しております。冬枯れに野火が発生、離村・死潰(しにつぶれ)し31軒となり、年貢米も65俵、永(えい)34貫文(畑作の税)となりました。

 近年、桜町知行所の村々がご仕法により立直り、有難き仕合せに存じます。桜町と同じような荒地開発、入百姓などの救済策を、私共の地頭(川副氏)にお願いした処、地行所(青木村)立直りの工夫については、如何ようにされてもよいとの沙汰がありました。

 去る子年(文政11年)以来、西村組頭丈八(二宮町)をもって、村の難儀、用水掛りに相談、真岡代官所へもお願い内見していただきました。しかし、その後で代官も代りこの案件が流れ、村は次第に困窮し、百姓相続が難しくなりました。地頭様の用水堰普請についての書状持参する間、別格のご慈悲をもって、村を救うため何卒(なにとぞ)内見(かいそん回村)くだされますようお願い申しあげます。

 今まで通り百姓相続ができますよう、仰付(おおせつけ)くだされますれば有難き仕合せに存じたてまつります。」
以上

天保二辛卯(しんう)年
十一月晦日(みそか)常州真壁郡青木村

下 組 百 姓
吉左衛門、仙吉、定右衛門、友吉、重兵衛、元三郎、岩吉、周蔵、平次右衛門、常治、茂十郎、助右衛門、岩蔵、五右衛門、芳兵衛、鹿蔵、元右衛門、勇助、善六、柳蔵 〆二十人

上 組 百 姓
与右衛門、嘉兵衛、源兵衛、直松、国吉、清吉、新吉、嘉左衛門、伊兵衛、敏蔵、儀兵衛、長左衛門、弥六

名 主  柳蔵
同    勘右衛門
組 頭  喜助 〆十七人
同    善六
百姓代  勇助
     喜助
     勘右衛門
上下〆三十七人

野州桜町御役所

二宮金次郎様

 この文章から、百姓の血の叫びに対し、地頭(川副氏)の治政が百姓まかせの丸投げ、無為無策ぶりが読みとれます。

 青木村名主舘野勘右衛門の生家。後に、苗字帯刀を許され、代官役を仰せ付けられる。(現当主 舘野正雄氏)

[文:舘野義久]



【九】尊徳の叱責

 桜町陣屋(二宮町)に青木村の救済を嘆願する名主、百姓たちを前に、二宮尊徳は次のように諭(さと)すのです。その言葉は、現代の社会状況に通ずる内容です。

 「そもそも村の荒廃は、用水を失ったのみではない。用水がなければ田を畑として、雑穀を得るべきである。人を養うものは稲穀に限っていない。用水のとぼ乏しきを口実として、良田を荒蕪(こうぶ)に帰するは、井泉を塞(ふさ)いで水を他に求むる類(たぐ)い。惰(だ)の民(なまけ者)となり、博奕(ばくち)を事として祖先伝来の家財を失う。

 農力進みて、糞培(ふんばい)(地を耕し肥やす)怠らなければ、畑もまた田に勝る。田は一作の地多く、畑は両毛(陸稲(おかぼ)と麦)を常とし、之をきらうは怠惰(たいだ)なり。我が仕法は節倹をもって有余を生み、他の艱苦(かんく)を救う。各々その業に精励・善行を積み、悪行をなさず勤倹をもって一家をなすべきである。

 各々がそうするならば、貧村は必ず富み、廃邑(つぶれむら)は必ず興る。おまえたちの村の困窮はあわれ憐みなれども、それは自業自得である。再び来るなかれ」と、厳しく叱責するのでした。

 これに対し名主勘右衛門は、涙を流し泣きながら訴えるのです。

 「邑民(むらびと)の農業を怠る所業は、先生の言う通りです。しかし、邑(むら)は困窮極まり放置することは出来ません。悔恨(かいこん)の情でいっぱいです。これから懶惰(らんだ)を改め先生の教えに従い、粉骨を尽くし艱苦(かんく)に耐え、再興の業に従事することを誓います。何卒この村を救いくださることお願いいたします。」と、悲痛な声で訴えました。

 尊徳はじっと聞き入り、泰然として諭すのです。
 
 「人は苦しみが迫る時、どんな難儀(なんぎ)もいとわないと言うが、少し良くなると元に戻る。邑(むら)再興の道は旧弊(きゅうへい)を除き、初めから着手することが大事」と。

 一同はこれに対し、どのような困難にも耐えることを誓約し席を立とうとしませんでした。尊徳は、しばらく考えてから言葉を発しました。「青木村への仕法を引き受けるかどうかは、まだ決めていない。
 ただこうしよう。青木村についての詳しい調査資料がほしい。わしは調査しないでいきなり仕法は実行しない。まず資料を出してほしい。その後で実際に回村したうえで仕法が行えるか考えよう。

 「先ず火災の原因となる茅(かや)やすすきを刈ってほしい。刈り終わったならば、それ相当の値段で買取ってやろう。」

 この言葉に勘右衛門をはじめ一同は、目を輝かせ「きっと先生は、青木村へ来て下さる」という、祈りにも似た確信を持ったのです。村中に茅やすすきが生い茂るということは、火災の原因になるだけではないのです。(そのことは、村の人の心に茅とすすきが生い茂っているのだ)

 青木村の尊徳仕法は、心に生い茂った茅やすすきを刈り取る『心田開発』からはじめられたのです。


▲二宮町にある桜町陣屋 (国指定史跡)宇津氏4千石の役所跡
二宮尊徳は、家族とともに26年間ここに住み仕法に尽力した。

[文:舘野義久]



【壱拾】尊徳の金銭感覚


 二宮尊徳という人は、人心掌握の術をよく心得ていました。桜町(二宮町)でも青木村でも、そのことが如何なく発揮されています。自分を信頼させる、してくれる者への処し方の下ごしらえの上手な人でした。

 その特徴的なものは、金銭の使い方にあります。すなわち金を与えて人の心根をただすという「尊徳流の下ごしらえ」には、青木村の農民はただ驚くばかり、こんな人物に出会ったことは始めてのことだったからです。

 「火災の原因となる茅を刈るべし。刈り終わったならば、相当の値段で買い取る」という尊徳の言葉に村民一同感激、早速、老若男女総出で3日間に1778駄(だ)(1駄は馬に背負わせる量)を狩り出しました。

 名主勘右衛門は、これを尊徳に報告。賃金として金14両3分1朱26文を受け取りました。茅30駄で1分(1両の4分の1)の割合、1朱は(1両の16分の1)というもの。そのうえ、褒美として鍬や鎌を与え労をねぎらいました。

 尊徳は青木村の仕法(復興計画)にあたり、まず働くことへの意欲、働いた結果の喜びを体感的に知らしめたのです。今までの村の仕事は、領主の指示や命令での堰普請、道普請など、どれ一つとてもやらされる、やらされているという受身の姿勢で取り組んできました。

 尊徳には、(この村の百姓は働けば金になるという金銭感覚が欠如している)と映りました。万が一青木村の人々に、荒地開発・堰普請もやらされるという意識が、心の片隅にあったのでは、この仕法は成功しないという危惧の念もありました。

 働く人々に対し、賃金を払うのは当然というのが尊徳の哲学でした。村の堰普請だからといって、働く人々にただ働きをさせる癖を、この村でも改めさせなければならないことを知らしめたのです。
 「世の中にただ(無料)のものはない、値打ちのないものはない」という価値観をうえつけたのです。
 働くことは、「単に奉仕でも、慈善事業でもない。つまり、金をかけずに仕事をしたりするから、金銭感覚が薄れ、結果的に村を疲弊させることになる。この世の中は、金で動いていることを、この村の人たちに知ってもらいたい」という信念で仕法にあたったのです。

 事実、この時代貨幣経済は農村の隅々まで浸透し、大名も旗本も農民もすべて、士農工商の最下位にあった商人層によって動かされていたのです。

 ところで、尊徳は買取った茅で青木神社をはじめ、寺社堂7棟、民家31軒の屋根ふきをしたのです。これに要した費用金15両3分1朱余、米15俵余、これもすべて尊徳により供与されました。
 このような尊徳の取り計らいに村民一同感泣し、今後どのような困難にも耐えていくことを誓い、一日も早い仕法開始を懇願したのです。

 これは、天保2年(1831)12月のことでした。


▲二宮尊徳仕法による「流造り」の青木神社本殿の屋根修理(現在は銅板ぶき)


▲青木村名主 舘野勘右衛門奉納の手洗い石(青木神社・裏に銘文)

[文:舘野義久]



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