いわせものがたり(平成5年度)

平成5年度

「熊野神社と湯沢」

 本植集落より加波山へ登る現在の道は、江戸時代には笠間の殿様や家来衆が、同じ笠間藩領である真壁地方への近道として峠を越えて大曽根へ行くことが出来たので、多くの人々が利用した道路であったと言われている。
 また、すぐ南側の薬師堂側を登るもう一本の道が本当の加波山道であったとも言われている。
 現在は、鬱蒼とした山になっているが、薬師堂の西上の沢は湯沢といって、古くは熊野神社が祀られ、伝えでは文水八年(1271年)、紀州熊野本宮より御神体を迎えたと言われている。
 何分にも当時は人里離れたところだったので、しばしば野火により焼失、そのため明徳二年(1731年)、熊野神社に御神体を移して、湯沢には宝殿を置き、本宮人権現と言われたとも伝えられている。
 そして、この湯沢の名の由来として、熊野権現をこの地に祀ったとき、紀州熊野本宮よりお湯をいただき持参してこの沢に流したと伝えられている。
 それより、この沢に薬湯場を作り、薬湯をいただいては無病息災を祈願したことから、湯沢として大切にされたということである。
 また集落古老の語るによれば、湯沢の水はいくぶん臭いがあり鉱泉ではあるまいかといわれ、江戸時代ごろにはバクチ場があり、好きな人が集まって賑わったとも伝えられている。
 
(平成5年4月19日発行)


「鹿島神社と大しめなわ」

 岩瀬盆地の最南東に位置する今泉集落。
 記録によれば四百年も昔の天文二十四年、結城城主・結城政勝が小山市の高椅神社に与えた書状には、中郡今泉郷を高椅神社の神領として寄進したと伝えられており、支配大名が目まぐるしく入れ替わったその当時、結城氏の勢力が岩瀬地方全域に及んでいたものと思われる。
 その後、江戸時代から明治の初めまで笠間藩領として三百年続いたが、二百年前の文化期の笠間領内人別調べでは、戸数二十六戸と記されているが、現在は四十二戸といわれる。
 さて、今泉集落旧道西外れには石の鳥居があり、高い所に鹿島神社が祀られている。
 祭神は鹿島の神(タケミカズチの神)で、創立は明らかでないが、古くは寺支配にあったと伝えられている。
 そして四月三日の春祭り、十一月十五日には秋祭りが行われ、例年十四日には五穀豊饒を希った大しめなわが二交替で作られ、鳥居にくくられる。
 竜の形をした大しめなわは、昔は頭の部分の直径が五〇センチメートル位あったといわれ、中ほどに吊り下げられたわらで作った「房」は、竜の足に当たるといわれている。
 
(平成5年5月25日発行)


「親鸞と御御手洗」

 鹿島神社の鳥居前の道を西ヘわずかばかり歩くと、親鸞伝説のおみたらしの井戸があり、その傍らに「親鸞聖人御旧跡禅井」と記されている標柱がある。
 この今泉の地は、昔は親鸞聖人稲田禅房の地で、「神原の井」は「今泉おみたらし」であると言われた説が流れたこともあった。
 それは、古書に「稲田郷に十年余り御座なされぬこれ筑波山の北、板敷山の麓にあり」と、記されていたからである。
 「親鸞伝記」によると、父は藤原有範、母は源義朝の従妹で吉光御前だったため、平氏の危害を恐れて弱冠九歳で出家し、比叡山に登ったと伝えられている。
 青春時代を山で修行し、修法に頼る仏法に悩み、悟れぬまま比叡山における高い地位を捨て、法隆寺に詣った。更に大阪の聖徳太子廟に参観して、太子の夢知らせをいただいた。
 そのため、浄土真宗の寺には必ず、太子堂が祀られていると言われている。
 法然上人の弟子と、念仏信者であった親鸞が北條政権による七年に及ぶ越後流罪を許され、東国武将の招きもあって、常陸国稲田へと辿り着いた。
 その後は、弟子となった稲田頼重の助けで禅房を建て、浄土真宗布教に励む傍ら、しばしば鹿島神宮を参拝したと、伝えられている。
 
(平成5年6月18日発行)


「阿弥陀堂をゆく」

 御御手洗から東へ福原八郷街道を越えて緩い坂道を歩いてゆくと、道の北側に急な石段がそびえている。
 その石段を登ると「オアミダマサ」と呼ばれている古い寺、玉蔵院がある。
 石段の下には、大きな石の台座に百観音、百万返念仏など江戸時代の供養塔があり、そこから見上げるような急な石段を、あえぎながら登ると、今泉集落の墓地に囲まれた古いお堂が、ひっそりと建っている。
 玉蔵院は、笠間市来栖の真言宗、岩谷寺の末寺で、永禄四年と元禄十年と書かれた二枚の棟札が残されている。
 また本尊は徳一大師の作と伝えられている。
 現在この寺のお墓に登るには、参道とは別に回り道ができているが、昔は葬式の時にもこの急な石段を棺をかついで登ったので、前の床取は背を丸めながら両手をできるだけ低くおろし、後の床取は反対に、できるだけ高く両手を差し上げるようにし、更に両側から支え、六人がかりの難行苦行であったと、集落の古老は語っている。
 また、神事(農休日)には、集落の若い衆が自然とお堂に集まっては、冗談や、色話に花を咲かせ、にぎやかに酒のみをしたものだった、と昔を懐かしみながら語ってくれた。
 今では無住のこの寺も、石段の登り目付近が寺屋敷と呼ばれているところから推測すれば、古くは住職がいたのではないかと思われる。
 
(平成5年7月19日発行)


「今泉村そぞろ歩き」

 玉蔵院から東の山に向かって進むと旧家が多くあり、その中に安達彦衛氏の立派な長屋門が、白いみかげの石垣の上にそびえている。
 昔、笠間の殿様が吾国山麓での鷹狩りの際には、しばしば休息に立ち寄られたと言われているが、名主格の家として古くから栄えていたらしく、彦衛氏の家には多くの書状や触書と共に、切支丹取締や風俗取締りに関係する高札が残されていた。
 ふたたび玉蔵院前に戻り、板敷山に向かって歩くと、小板敷から田上集落に通じる一本の坂道がある。この道路が柿岡街道と言って、折にふれ、笠間の殿さまや家来衆が、真壁へ行くのに通行した笠間城に通じる道と言われている。
 この柿岡街道に沿って板敷山の方へ行くと、途中に矢張り長屋門の安達倍伯氏の旧家がある。
 この長屋門の一部東側は、先年九十数歳の天寿を全うして他界された、岩瀬短歌育ての親である植田多喜子女史が、四〇年の長い年月を寿泉庵と称し、作歌に精進しながら孤独に耐えた住居である。

 閑けしや身はひとひらの落葉にて
  片隅に在り天も地も清む
     (植田多喜子歌集夕霧帖より)
 
 
(平成5年8月18日発行)


「けら踊り」

 「けら踊り」は、西小塙上地区に古くから続いている伝統芸能であるが、いつしか忘れられようとしていた。そんな時、現在の地区区長である飯島氏らがまだ若い頃、けら踊りが忘れられるのを憂いて、古老の指導を受け復活したため、今も毎年盛大に続けられている。
 この踊りは、リズムの早い踊りで、昆虫のけら虫が忙しく土を掘り起こす動作を真似たといわれている。太鼓の音もあわただしく、化粧した男女の踊り手が腰を深くかがめながら、大形に踊るさまは本当に珍しい郷土芸能である。
 飯島氏の話によると、毎年八月二十日頃に開催されるとのことであるが、今年は八月二十一日に開催され、あいにくの俄雨にたたられてしまった。
 それでも雨の中多くの地区民が子供も交えて盛大に踊ってくれたと感激していた。
 そして現在、自分たちが継承しているけら踊りを絶やさぬために、夏休みには毎晩のように愛好する小中学生に練習させていると語るのだった。
 けら踊りは、農作物の豊作祈願の踊りとも、また寛延三義民の供養のための踊りともいわれ、その唄は次のとおりです。

  チョイトキタサ、チョイトキタサ
  今日は羽黒のけら踊り
  松茸さんなら、お寄んなさい

  チョイトキタサ、チョイトキタサ
  大杉囃子はありかたい
  おかげで、お米が二度とれた

  チョイトキタサ、チョイトキタサ
  昔の人が言うことにや
  偉いお方が、三人いたそうな

  チョイトキタサ、チョイトキタサ
  この世の世直し、してくれた
  それは、余人じゃないわいな

 この四節の歌詞が示すように寛延二年の山外郷百姓一揆の指導者であった磯部清太夫、萩原太郎左衛門、藤井佐太郎の処刑を悲しみ、その鎮魂慰霊碑のためにけら踊りが出来たとも伝えられている。

(○=金へんに尚)

(平成5年9月20日発行)


「羽黒の工匠」

 世の中がようやく太平になった江戸時代寛永の頃、真壁生まれの桜井瀬兵衛は、火災で焼失した月山寺再建のため、宮大工棟梁として重責を任されていた。
 当時笠間藩主として月山寺再建に尽くしたと言われている浅野長直は、真壁をも併せ領していたので、その宮大工としての技を生かすため、瀬兵衛にその職を与えたのかも知れない。
 それから数年がたち、月山寺本堂が完成したのは延宝八年といわれ、二代瀬左衛門は宝永年間に西小塙鎮守の二所神社、三代瀬兵衛政信は、月山寺山王社や元岩瀬鎮守の今宮神社、四代瀬兵衛益清は、月山寺中門を建築した。
 そして元県文化財委員で建築学者でもある一色文彦先生は、棟梁となり、各地区の神社や寺などを建築された桜井四代の功績を、史料を示しながら語ってくれた。
 また、宮大工桜井流の建物の特徴は、建築の工程に地紋彫と唐草模様の彫刻が必ずある、と話してくれました。
 更に真岡の大前神社から成田山新勝寺三重塔に至るまで、県南一帯の多くの社寺建設棟梁として、一流宮大工の腕を振るったと言われている。
 羽黒の地に住して百年余り、偉大な工匠として名声を馳せた桜井氏であるが、四代目瀬兵衛益清は、宝暦十年に没したと月山寺過去帳に記され、「原道自休除鐘男」という変わった戒名を残して宮大工をやめたと言われている。
 西小塙地区には、真壁屋という屋号の桜井という姓があるが、瀬兵衛との関係は、墓もわからず全くなぞに包まれていると、月山寺住職は語ってくれた。

(平成5年10月26日発行)


「異常気象と大凶作」

 「天災は、忘れた頃にやってくる」というが、一昨年の島原の大噴火に続き、北海道南西沖大地震による奥尻島の大津波災害。
 そして、エルニーニョ現象といわれる長雨と低温で真夏の暑さがなかった今年は、数度の台風災害と重なって空前の大凶作となり、政府は外国米の大量輸入をすると発表した。
 我が岩瀬町でも生育はおくれ、大きな減収ではあるが、東北の作況を見る限り、まずまずと思うほかあるまい。
 江戸時代には、天明の大飢饉が五年、天保の飢饉は三年と、重なる凶作が続いたといわれた。天明の飢饉の折、青森県の津軽を旅した菅江真澄は、その旅日記に「家屋有れども住む人おらず、田畑荒れ、道端には餓死した人骨が至る所に放置され、わずかに生きた人々も人の肉を喰って生き延びていたが、もう住めないと村を捨てる人々に何度も出会った」と記されている。
 また、岩瀬町史の記するところによれば、富谷村の野村家記録として「天明三年七月五日、細かな砂ふり雪の如し昼も暗く、行燈灯し御座候砂一坪にて三升五合浅間山のやけ砂に御座候」と浅間山大爆発が記され、更に「七月八月雨天続き昼夜さむく候故か諸方田方実り入り申さず候由」と今年のような気象が記され、天明六年の記録には「七月十三日より雨降り出して七月十八日昼まで大雨降り続いて観音大寺塔の上、飯渕、大泉、神田その他、処々山ぬけ候」と岩瀬地方の災害が記されている。
 更に、「深沢小貫山崩れ深沢にて死人六人有り候茂木町入り水、土砂、家田を埋め流失、小栗橋、横島橋流失、九下田宿も床下三尺ばかり水上り候」と小貝川の氾濫の有り様が記されている。
 かかる災害と共に米の不作が五年も続いたため、全国では百万人近い餓死者を出し、「江戸に於いても餓死する人々多く米を求めて穀屋打毀しが横行した」と岩瀬町史は近世史料に詳しく記している。

(平成5年11月29日発行)


「太田郷は犬田集落」

    
 東に青柳・水戸・上城の山々を境にし、北に岩瀬の市街、西に大和村青木集落、南に本木集落を境とする大きな集落が犬田地区である。
 現在、岩瀬町文化財委員長の萩原義照氏の話によると、犬田集落は古くは中郡庄太田郷と呼ばれ、この太田郷の住人として、中郡惣代官太田五郎左衛門の名前が、鎌倉法華堂古文書に次のように記されている。
 「鎌倉法華堂領中郡太田郷事支証等明鏡候上者、可被去渡代官下地候、恐々謹言、応永二〇年十月四日、太田五郎左衛門入道殿」と記され、太田郷の「犬」に入れ替わったのではないか?と、萩原氏は云う。
 太田五郎左衛門は応永十二年に橋本山に吉所城を築いた。
 それは、たぶん太田伊勢守貞経であり、貞経は太田郷を法華堂に寄進、自らその地頭職をも引きついだものと思われる。
 犬田村は、慶長年間には、裃着用が許された長百姓が六軒もあり、その中から名主が選ばれたと云われ、その子孫と思われる旧家が今もなお残っている。
 この犬田集落にも、江戸時代中末期の農村荒廃期には、北陸農民の移住があり、それらの人々の勤勉さが集落の勤労意欲の向上に役立ったと云われている。

(平成5年12月16日発行)


「犬田神社」

 犬田集落の中央部、旧真壁街道と新道との間にあるこんもりとした社が、西山に鎮守する犬田神社である。
 正面参道を東へ約百メートルぐらい歩いて石鳥居くぐると、二対の石燈能とコマ狗に迎えられて、踏む敷石の音も神々しく、新装された拝殿に至る。
 平成四年十一月に改築された拝殿は、まだ本の香も匂うような感じで、拝殿正面欄門の竜の彫刻は、古い欄門から取り外して塗り直し、取り付けたといわれるだけあって見事なものである。
 この犬田神社は、昔は香取神社といわれ、八幡神社と合併して犬田神社と改めたといわれる。
 古くは、日本武尊東征の折、経津主、武甕槌、吹戸主の三神を祀ったのが始まりといわれている。
 寛永三年、笠間城主であった浅野長重造営といわれる、立派な社殿の裏手の山には御神木といわれる欅が一本、〆なわで巻かれている。
 余程古木らしく、こけむした根元には大きな洞穴があった。
 昔、奥州へ下向する途中の源義家は香取神社に参拝時、御神木の帯を見て「幾世を経りし欅の三つ椏にみつの湛への久しかるべし」と詠んだといわれている。

(平成6年1月18日発行)


「岩瀬小学校のふるさと 法蔵院」

 真壁街道の犬田集落は南端に近く、大坪というバスの停留所付近に「真言宗豊山脈法蔵院入口」という標柱が建っている。
 この案内に従って東へ狭い道を進むと、やがて法蔵院山門に至る。
 この山門前に小さな記念碑があり「岩瀬小学校発祥之地」と刻まれ、裏面に岩瀬小学校創立百年記念・昭和五〇年建立と記されていた。
 日本全国に国民教育制が施行されたのは、明治五年のことであり小学校設立規則によれば男女六歳で就学することとし、必ず就学することを義務づけたものであった。
 わが岩瀬町においても、明治六年四月に飯岡村に小学校が開校したのを始め、続々と学校が聞かれたがその多くが寺子屋式であった。
 犬田村法蔵院にも明治八年犬田村・新田村・鍬田村の三集落児童を対象として岩瀬小学校が開校したと伝えられる。
 山門をくぐると境内は、欅・桜の古木に囲まれながらも静かなたたずまいの中に、まだ新しい本堂や庫裡が建ち並び、本堂南面の庭外れにはー本の高野槇が天高くそびえ、その巨木の下には先代住職中根隆淳師の歌碑がひっそりと置かれているのだった。
 
(平成六年二月十六日発行)


「法蔵院と百体観世音」

 現在、永楽の地にある法蔵院は、法蔵院縁起によれば昔は東山堂平の地にあった。
 このお寺は、今から約千二百年前の弘仁元年に建立されたのが、創建と伝えられている。
 また、本寺は賀沢三学という者が、都の公家衆であった藤原薬子の命により建てたもので、徳一大師によって作られたといわれる聖観音を御本尊とする観音堂である。
 そして、雨引山楽法寺とは姉妹寺の関係といわれている。
 この寺も、天明六年に野火のため火災焼失の難にあい、文政十二年に再建したとつたえられている。
 また、本堂東側のお堂は、創始者である賀沢三学の名を取ったものといわれている三学山観音堂であるが、このお堂も寛政十年に野火による焼失の後、院境内に再建されたと伝えられている。
 また、今から二五〇年も前の延享四年、当時の住職が重い眼の病に苦しみ、ひたすら院内の薬師堂の薬師如来に祈願した所、この病が全快した。
 そのため岩瀬地方に二十五の薬師堂を建立した。その第一番の札所といわれている。
 それから、本堂内に奉納されている益子焼の百体観音は、明治期に、犬田集落の信者が中心となって祈願奉納された観音佛といわれ、明治四十五年に開眼大法要をした、と伝えられている。
 
(平成6年3月18日発行)

古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」