いわせものがたり(平成17年度)

平成17年度

「松田の生んだ神風特攻隊」

 今から六十年もの昔、日本はドイツ・イタリアと三国同盟を結び、アメリカ・イギリスなどの連合国を相手に戦争をした。
 昭和六年の満州事変から太平洋戦争へと、日本は破滅への道を突き進み、軍国主義教育は、清純な青年に忠君の思想と護国の情熱を植えつけた。
 明治三十七年の日露戦争で大伯父の嶋田卯平伍長が、昭和十七年には、従兄の嶋田正三が中国で戦死。兄も陸軍軍人として戦地で転戦している。
 同じ集落の親友で、共に教師を夢見て茨城師範に入学した嶋田明と小林位は、険しくなった戦局と日本の将来を語りながら愛国の情熱も出しがたく、昭和十八年、嶋田明は土浦海軍航空隊に、小林位は熊谷陸軍航空隊に入隊した。
 ひたすら飛行士として訓練に励み、嶋田明は昭和十九年十二月七日、神風特攻隊として比島沖で米艦に体当りで壮烈な戦死。
 小林位は昭和二十年五月二十四日、嶋田の後に続くぞとばかり、神風機で沖縄の空に散り、共に松田霊園に眠っている。

(平成17年4月発行)


「犬田 山倉神社」

 鍬田地区と青木地区の境をなす「堀川」には、足利橋と言う名の橋が架かっており、その先に「二宮様」が祭られている。
 そこから犬田西山地区を通って大和村へ向う道が、「鎌倉街道」といわれていた。
 犬田には、遺跡や古墳が多く、西山地区にも大神田古墳群などの塚が沢山残っている。
 西山地区の西側に「山倉様」と呼ばれている神社がある。鳥居からは遥か山の上にあり、急な石段と長い坂道を登ると、桜や杉などに囲まれた境内にひっそりと社殿が祭られている。
 境内から南側を望めば、雄大な筑波の山々が美しい姿を見せていた。
 伝えによれば、明治十年に西山坪と境坪の村民が千葉県香取郡から「山倉様」をお迎えしたと言われている。厄病除けの神として信仰を集め、現在も二月の第一日曜日に春祭り、六月の第一日曜日に万灯祭り、そして、十一月の第一日曜日には秋祭りの祭礼が西山・境坪の住民の間で行われており、昔は出店があったそうである。
 社殿脇の自然石には、翠葉こと「石倉重継」の句碑が刻まれている。

▲犬田 山倉神社

(平成17年6月発行)


私考「犬田遺跡と橋本城」

 昔、常世の国とも言われた当岩瀬地方には、古くから人々が住み着き、新治郡の郡役所跡の碑が上野原台地の古郡地区に建てられている。
 現在進行中の北関東自動車道の建設予定地では、遺跡の発掘調査が大々的に行われ、その結果、「辰海道遺跡」をはじめ多くの遺跡から貴重な資料が続々と発見された。犬田神社前の台地からも、縄文期から江戸時代までの住居遺跡から多くの遺物が発見され、掘り出された。
 その中で、鎌倉時代から室町時代の豪族の館跡と思われる大きな屋敷の遺構が発掘された。
 この犬田遺跡の東側の犬田山に続く峰に、橋本城の遺跡があって、山頂(227メートル)には天守台、そして東方に向かい段々に山城が構築されていた。
 足利三代将軍・義僕の時代に中郡地頭職であったと伝えられる、「太田伊勢守真紅」が橋本山に砦を築き、中郡にニラミを利かせる要害の地で、吉所城と言われ、鬼門除けとして大手先に「爪黒権現」を伊豆より観請し、太田氏は、太田郷と言われた犬田地内に居住していたのか、と偲ばれる。
 
(平成17年7月発行)


「上城集落の安達家」

 上城集落は、水戸地区寄りの山沿いに安達氏の邸宅がある。四つ足門をくぐると江戸時代に建築された母屋がある。
 玄関は、現在ほとんど見られなくなった式台付きで、昔は代官所の役人や知名な客人等を出迎えた所と言われ、一般の村人や知人等は、脇玄関である土間口から出入りしていた。
 この母屋西側には、書院があり、床の間には鹿の角の刀掛けに大小の刀と槍などが置かれてあったと記憶している。
 西側には大きな納屋があり、昔は母屋も納屋も茅葺きであったが現在はトタンでおおわれており、今も在りし日の豪農のたたずまいを残している。
 安達家は、郷士として苗字帯刀を許されていたと伝えられ、代々名主の家柄で、村では谷中家と並ぶ旧家であった。
 この安達家にし、嘉永二年の安達脩作一行の伊勢から金比羅参詣までの道中記が残されている。

▲上城 安達家

(平成17年8月発行)


「医は仁術 赤ひげ先生」

 木植集落の八郷町に接する山裾に、長屋門構えの旧家、宮田仁さんの邸宅が昔の面影を残して建っている。
 庭には宮田四郎先生を讃える顕彰碑が木植・今泉・猿田・曽根集落の入郷地区二百余名の寄金で昭和五十年八月、宮山茂夫氏の撰文で当時の県知事竹内藤男氏の筆で建立。四郎先生八十歳の時であった。
 明治二十七年、宮田子之吉の四番目の子として生まれたので、分かりやすい方がいいと四郎とつけられたといわれるが、資産家の子で秀才であった四郎は、東京の慈恵会医大に合格。
 医師の道に進むことになり、昭和の初めに東京・亀戸に宮田医院を開業したが、貧乏人からは代金も取らず、郷里の木植から送られた米等も惜しげなく分け与えるなど、文字通りの「医は仁術」の経営で、治療代は金ができたら持ってこいやというやり方であった。
 昭和十三年、軍医少尉であった四郎にも招集の赤紙が来て、一年間北支の戦地で傷病兵の治療に励み除隊。
 昭和十九年、敗戦が濃くなった東京から強制疎開で故郷の木植に帰り医院を開業した。
 宮田先生の「医は仁術」は、たちまち近隣に広まり、「宮田先生がいらっしやればゼニが無くても診てもらえるから有難い生き神様みたいだー」と評判になり、治療代として米や野菜が届けられ、当時の金でいつも未収金が数十万円はあったという。
 八郷町方面からも名声を伝え聞いて貧しい患者がわんさかと押し掛けたのだったが、八十二歳で赤ひげ先生は多くの人々の号泣に見送られて他界したのであった。

(平成17年9月発行)

古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」