将門伝説【2】
君の前との邂逅(かいこう)
今から千年余りも昔の天慶の頃、関東独立王国をめざした悲劇の武将平将門については、本村に数多くの伝説が残っています。
中でも、大国玉字木崎は将門の正妻となった「君の前」(君子と称したかも)の出生地ということで、后神社(君の前の木像を祀る)、宝塚(将門の財宝を隠したという古墳)、御堂(みどう)の越(こし)碑(将門供養塔という)など史跡にも富んだところです。
ここは、南に筑波山を望む風光明媚(ふうこうめいび)な台地で、「将門記」に登場する平真樹の館があったところといわれています。館には、真樹の娘で近隣に美貌(びぼう)の誉れ高き君子(君の前)がおりました。
この館から西、さほど遠くない御門(三門ともいい、将門が親皇(みかど)と称したので地名となったという。)は、将門の荘園で営所があったといいます。
彼はこの地で所領の民と田畑を耕し、兵馬の術に汗を流していました。いつしかその凛々しい姿は君子の目にも留まり、心の奥に深く刻み込まれていきました。
一方、雨引山の麓本木(もとぎ)(将門記には取木と記されている。)には、常陸国府の高官だった前大掾源護(さきのだいじょうみなもとのまもる)の館(雨引小学校付近の台地、口あけ塚と呼ばれた古墳の大石が露出し、富士・筑波を望む景勝地)があったといいます。
ここに護の長男扶(たすく)や隆(たかし)・繁(しげる)などの兄弟が住んでいましたが、後に、この源氏一族と将門は死闘を展開することになります。
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▲后神社
筑波山は関東平野に聳(そび)える明峰であるとともに、男女和合の信仰を願う優雅な山でありました。
古代の人達は男体(なんたい)・女体(にょたい)の峰を仰いでは男女の営みを素直に感受し、子孫繁栄を願ってきました。
古くから近郷近住の人達は、この山に春、秋二回、日を定めその年の豊作を祈り、夜を徹して男女の極楽浄土を出現しました。
彼らは即興の歌や踊りで、良き男、良き女を求め一夜の甘美に酔いしれました。これが有名な筑波の嬥歌(かがい)(歌垣ともいう)といわれています。
この嬥歌で、将門と君子(きみこ)は出会い、身も心も蕩(とろ)ける灼熱の恋で結ばれました。長き髪に顔を伏せ、高貴な暗香(あんこう)が漂う女、父を亡くし失意の底に打ちひしがれ、心の荒んだ将門の体を温かく受け容れてくれた女体。
将門は「許されたい、わたしは豊田の小次郎と申す。いずれのご息女でござるか、家までお送り申そう。」と。女は「わたしは、前から小次郎さまをお慕いしておりました。大国玉神社の宰領平真樹(たいらのまたて)の娘、君子と申します。」と、安堵の心を示しました。
将門は、夜明けの空を隠し置いた馬の前鞍に君子を乗せ、女の指さす方向をめざし走り続けました。流れ星が大きな曲線を描き雨引山頂に消え、二人の前途に不吉な予感を感じさせます。
常陸国真壁郡神代(かめくま)郷大国玉の豪族平真樹の屋敷は広く、館の門前に駒を止め「下総国豊田郷平小次郎と申す。真樹の御殿(おんとの)に御意を得たい。ご息女を伴って参った。お取次ぎ願いたい。」と丁重に大声で叫びました。
将門は中へ招かれ、君子の父平真樹と一門ながら初対面をしたのです。
文:舘野義久
取材協力
太田良正さん(宮)
代田晴さん(木崎)