平成元年度
「天台宗 月山寺」
西小塙地区の西北に位置する月山寺は、平安時代の初め徳一上人により法相宗の寺として中郡橋本の地に建立され、永享二年、光栄上人の代に天台宗に改宗したと伝えられる。その後、恵賢上人の代に天海上人に従い開ケ原合戦東軍勝利を祈願、戦勝の功労によって現在地に朱印地を受け、橋本村より移転した。
月山寺から磯部へ向かう旧道の台地には、「開山恵賢墓」と記された大きな石碑が、はるかに見えるふるさと橋本の山に向けて建てられている。
この月山寺は、寛永三年の寺院焼失の際、当時笠間藩主であった浅野長重の援助によって無事再建されたといわれる。浅野家は、長直の代に幡州赤穂へ国替えになり、孫の長規が江戸城・松の廊下の刃傷事件によってお家断絶、四十七士の仇討ちであまりにも有名である。
去る三月十四日、月山寺の文化財・宝物を格納する美術館の落慶法要が、有志の努力によって無事営まれた。
ここには、弁慶の所持品といわれる国指定の重要文化財・網代笈をはじめ、数多くの文化財や美術品が展示されている。
(平成元年4月27日発行)
「月山寺のふるさと」
中郡荘橋本(上城)にそびえる城山、そこに「橋本故城」として知られる中世の城跡がある。
月山寺は、そのふもとに戦国期まであったと伝えられ、水戸堺に「寺山」の地名がある。また、古くは坊屋敷であったと伝えられ、本宅の屋号で知られる谷中氏の屋敷跡もある。
月山寺とは、はるか昔、奈良時代の末ごろ、法相宗の寺を開基した徳一上人が、当代随一の高僧として知られた行基上人との法論の末、日影の橋本の地に開山したと伝えられる。
その後三十八世恵賢上人が現在地の西小塙に移転するまで、学問所として隆盛を極めたといわれる。
ちなみに、開祖・徳一上人建立の寺院は、関東地方に数多く残っているが、取り分け有名なのは八郷町吉生の峯寺山西光院である。
ひのきの一本造り観音像と牛馬の無事息災を祈念した馬頭観音が有名で、本堂は関東の清水寺として名高い,舞台から下界を見下ろせば、目もくらむばかりで、晴れた日には太平洋も見渡せるという。
(平成元年5月25日発行)
「爪黒神社」
上城集落の中間を流れる御霊川、東に枇杷塚坪、西に宮下坪、この宮下坪の上にそびえるのが橋本城跡である。
この城山のふもとに鎮座しているのが「爪黒神社」。
伝えによれば応永三十二年時の城主・太田伊勢守貞経が、城の鬼門に伊豆・雲見より祭神磐長姫命を迎えて祭ったのが爪黒明神といわれる。
ある時、この神様が蛇に追われて大角豆のつるにつまづき転倒、茶の木で目を突いて片目になったので、上城地区では現在に至るも茶と大角豆を作ることはない。
また神社の参道には石の鳥居があり、この鳥居にうまく石が乗ると、「いい嫁っ子がもらえる」との縁起から、昔は青年たちがよく小石を投げたものであった。
ちなみに、この鳥居は幕末に寄進されたもので、傍らの幟枠の石に当時の寄進者二十九名の姓名と「文久二年九月吉辰鶯谷摂津建之」の文字が記されている。
そして、これの寄付名簿から、名字は明治になってにわかに作られたものではなく、例え農民といえども、以前から隠れ名字を使用していたことが判明する。
(平成元年6月22日発行)
「橋本村古戦記(上)」
上城集落の南にそびゆる「城山」は、だんだん山と呼ばれ、その昔、「吉所城」といわれ、今は遥かな戦国の世に多くの物語を残した、標高200メートルほどの美しい山である。
この山の発祥は、応永年間、太田伊勢守貞経の築城とされているが、それより約五十年ほど前の南北朝時代に、奥州鎮守府将軍であった北畠顕家の従将・岩城官軍鯨岡乗隆行隆親子の従軍記には、「常陸ヲ徇へ進ンデ橋本ニ障シ村田ヲ攻メ連リニ小栗ヲ攻ム橋本ハ新治郡ノ中郡ニアリ……」と記されていると、「常陸国誌」は伝えており、当時、上城地区のどこかが南軍の重要な軍事拠点として使われたものと思われる。
時代が結城合戦のころになると、足利持氏の遺児、安王・春王の兄弟は、加茂神社に戦勝祈願の後、本所城に旗揚げをしたと「常陸国誌」は伝えているが、木植地区には城跡はないといわれるので、もしや上城の吉所城が誤り伝えられたのでは?とも思われる。
また、谷中家の古文書によると、大永二年の磯部原の戦功により、谷中大学が吉所城に在城したと伝えられる。さらに谷中家には、当時の益子城主・益子家宗からの感謝状が現存している。
(平成元年7月25日発行)
「橋本村古戦記(下)」
天正十三年、結城晴朝の重臣・片見伊賀守晴信は、三百余りを率いて橋本の砦に陣を構えていたが、この時、笠間城主・笠間時広は福原主膳と共に六百余りを従えて、片見の将・谷中玄藩の守る富岡砦を落として橋本に迫った。
一方、久下田城の水谷勝俊は三百余騎を率いて高森に構えていたが、急を知って片見を助けるべく、橋本へと急いだ。
水谷軍は戦い上手である。たちまち福原の軍を破り、片見の軍と合流して笠間軍を追撃した。
迫る水谷軍に観念した笠間時広が、稲田の西念寺に逃れ、大子堂内で自決しようとした時、住職の了与上人は、これを押しとどめ、単身時広の馬にまたがって水谷軍に乗り込み、和議の仲裁を果たしたそうである。
天正十四年、太田三楽は新治勢を従え、大増から板敷山を越えて中郡に攻め込もうとした。
片見の軍も橋本を出向して板敷きの峯に陣を敷き、しきりにかがり火を燃やしていたが、よもやと思っていた夜半に三楽の大軍に攻められ、ようやく手勢と共に橋本にたどり着けば、すでに橋本城の本丸には、太田軍の旗が風になびいていた。
片見伊賀守晴信は、天命すでにこれまでと、果敢に三楽軍に斬り込み、討ち死にしたという。
(平成元年8月29日発行)
「上城史跡」
爪黒神社の北、旧柿岡街道沿いの小さな塚に御霊様が祭られている。
この神社は、くさっぽ(吹き出物)の神様として知られ、以前は参拝人が絶えず、全快のお礼として、いつも豆腐が供えられていた記憶がある。
祭神は、源義家に従って武勇の誉れ高かった鎌倉権五郎と伝えられ、祠の近くには江戸時代の庚申塔や「橋本村女人講」と記された念仏供養塔など数基と御霊川改修で出土した宝塔二基が置かれている。
ここから東へ田んぼ越えた岩本家には、目くら地蔵と呼ばれるお地蔵さんと、多くの五輪が祭られている。
岩本家では、現在も毎日の礼拝を欠かさないとのこと。
古老の伝えでは、昔なんらかの理由で処刑された人々への鎮魂の供養仏ではないかともいわれるが、中世のころのものである。
枇杷塚坪を南へだらだら坂を登ると、上城山のみかげ石採掘場がある。
この採石塔の入り口付近に、石材業者の守り神として敬まわれる「成田山不動明王」「猿田彦大神」「宗音大明神」の碑が並ぶ。
これは、上城山石材採掘を初めて事業としてとりあげた、山口県生まれの福田綱五郎が明治二十二年に祭ったものである。
▲目くら地蔵
(平成元年9月26日発行)
「岩瀬水戸と西南戦争」
岩瀬駅から東ヘニキロ、御嶽山の東すそにある水戸地区について、知人から、しばしば「岩瀬にも水戸って所があるんだってね!」と聴かれる。
同地区中心部の高台には、日本武尊を祭る鎮守・八剣神社、西の山中には小聖神社の祠があり、北に伸びた台地の防陣台には多くの鏃が散乱していたという。
「水戸」の地名の由来は、詳しくは分からないが、多くの家が庭に井ズンボ(小池)を所有しており、わき出る水を生活用水としていたからか?それとも、山中・一ノ沢に水揚げ場があり、水神様を祭っていたからか?
とにかく県都と同じ地名が、我が町にもある。
そして神屋と呼ばれる家には、「珠賢寺」の一部が残されており、この地区にも月山寺の下寺が存在したのであった。
それから、同地区長の入江聖一郎の先祖・入江徳兵衛は、明治十年、現役兵として、東京鎮台に入隊。西南戦争時に、肥後大隅(現在の熊本県)から鹿児島は西郷隆盛最期の地、城山攻めまで転戦した征討記録が残されている。
また、奇しくも後に上城地区の人となった鷺谷昌恒も、東京警視局巡査として西南戦争に参加。
同じようなコースで城山攻めにも参加した。
(平成元年10月24日発行)
民話「タヌキの修行僧」
近年、私の住む橋本山にはタヌキが増えてきたようで、人家に現れては残飯を失敬するようになった。
私の牛舎は山ろくにあるが、時々牛の飼料を食べていたりするのを見かける。
大昔、橋本山付近にはタヌキが数多く住んでいたと思われ、タヌキにまつわる伝説が伝えられている。
それは、天正二年のある寒い冬のことだった。天台二世・光順住職の説法を毎夜熱心に聴いている一人の修行憎があった。
その熱心さに感動した光順師は、修行僧を近くに招いて深夜まで法話を続けていたが、ふと気がつくと修行僧は、ウトウトと眠っていた。腹にすえかねた住職が、そばにあった錫杖で起こしたところ、目の前には前進を忘れた一匹の古ダヌキがうずくまっていた。
そして、「私は裏山のタヌキですが、ご住職の説法をありがたく聴いておりましたが、ついうっかりにもタヌキ寝入りをしてしまいました。今後は私が境内を守りますが、私の嫌いな錫杖だけは門内禁止にしてください。」そう言ってペコペコと頭を下げると、山中に姿を消したとのことである……。
当時、橋本村にあった月山寺はお坊さんたちの勉学の場である関東五談義の一つに数えらて、多くの修行憎が出入りしていた。
(平成元年11月28日発行)
「稲荷神社の甘酒祭り」
西友部集落の北、旧笠間街道に架かる橋を「稲荷橋」といい、その周りの坪が現在の稲荷橋地区として独立した集落となっている。
この稲荷橋は、加波山から流れる筑輪川に架かる橋で、昭和十二年にコンクリート製の橋になり、現在は二代目の永久橋が架けられている。
この橋を西へ約百メートル行った街道の南側には、五十年ぐらい前まで一里塚があったといわれ、今でも小名字が一里として残っている。
以前は多くの街道に一里塚が造られていたが、ここ稲荷橋では、地名とともに昭和の初めまで失われることなく残されていたのである。
橋の東のT宇路を磯部方面ヘ向かったすぐ左側に、四ツ榎稲荷神社が祭られている。
招福の神社といわれるこの神社は、地元の伝えによると笠間稲荷より格が上であるといわれる。
記録によると、安永五年の差出帳には、四ツ榎稲荷二間四面支配人弥五郎、そして天保九年の巡見帖には、友部村四ツ榎稲荷大明神、神主萩原大膳と記されている。
この稲荷神社境内には、四ツ榎の名のとおり、榎の大木がそびえている。
昔から地区の安全と豊作を祈念して、十二月十五日には甘酒祭りが行われている。
神主の祝詞の後、集落ぐるみの祭りとなり、通行する人々にも甘酒がふるまわれて、もてなされるのである。
(平成元年12月26日発行)
「玉陰橋の血戦」
四ツ榎稲荷神社から北へ少し歩くと、磯部集落との境に幅三メートルほどの小川が流れ、玉陰の橋といわれる橋が架けられている。
時代は戦乱に明け暮れた天正十二年、先年父・玄蕃を討たれ、橋本城に笠間方の江戸美濃守を城代とされたのを無念に思っていた谷中孫八郎がいた。
孫八郎はまだ十八歳という若さであったが、これもまだ十九歳という安達大膳と相談して、弔い合戦の旗を揚げたのである。
夏というにはまだ少し早い旧暦の五月二十四日、磯部・池亀・諏訪(大月)の三ヵ所に伏兵を配して、首尾よく富谷城の加藤大隈を誘い出した谷中孫八郎の兵・百四十人、加藤天際の兵・五百人が玉陰橋に対峙したのであった。
この橋は幅狭く、多勢では渡れないため、川瀬を退く味方を不甲斐なく思った富谷方の青柳豊後・青柳肥後の兄弟は、大音声に「去年の今日も貴殿方の首を申し受けたり、今度もまたこの川を越えさせず皆殺しぞ!」と叫んだ。
その時、谷中孫八郎があれを見よ!と、馬上より扇を揚げて諏訪の峯を指さすを見れば、笠間の伏兵が鬨を挙げて富谷勢に向かって攻めかかったのである。
この戦闘で富谷勢は敗走、谷中孫八郎は首尾よく去年の父の仇・中村源七郎を討ち取り、再度橋本城主となったということである。
(平成2年1月23日発行)
「磯部桜川公園」
玉陰橋の北は磯部集落の台地であり、ゆるい坂を登ると、西へ磯部稲村神社の参道が長く続いている。
この坂の登り口東側の原山稲荷からが、国の名勝天然記念物「桜川のサクラ」・磯部桜川公園で、古来より西の吉野山(奈良)の桜に次いで東の「磯部の桜」と言われ、有名な桜の名所で、多くの古歌にも詠まれた旧跡である。
まず、だらだらと続く坂を登ると西側は息栖原と呼ばれる台地で、古い絵図では諏訪の峯とも記され、息栖社と諏訪社が祭られていたという。
また、富谷の加藤大隅、橋本の谷中孫八郎が玉陰橋決戦の折、谷中側が伏兵を配したと思われる台地が桜川沿いの低地に伸びている。
参道東側は桜公園で、高台の椎の古木の下には浅間神社が祭られ、そこから富士山を見ることができたと伝えられているが、現在は見えないらしい。
その東の凹地に薬師堂があり、町文化財の「月光菩薩」と「薬師如来」が祭られ、古くは堂内で信者の念仏が絶えず、四月八日には村中で花祭りが催されたといわれるが、現在はこの前庭が「春の桜まつり」の大セレモニーの場となる。
この公園には古木をまじえ約千本の桜があり、大正十三年には国指定の文化財になっており、紀貴之の
つねよりも春辺になれば桜川
波の花こそまなくよすらめ
の歌碑や名勝桜川案内の碑文などが建立されている。
(平成2年2月13日発行)
「磯部 稲村神社」
桜公園より磯部稲村神社に至る参道の両側に並ぶ屋敷を、昔は社家屋敷と呼んだといわれ、神社に関係した人々が住んでいたものと思われる。
神社の創建は、はるか昔、景行天皇の時代と伝えられている。
祭神は天照皇大神・木華咲耶姫・日本武尊など十二柱の神々が祭られ、そのほか、磯部地内に三十社に余る末社があったといわれている。
日本武尊が九州の熊襲を平定して数年。都で労をいやしていた尊に、父の景行天皇は「東の夷が我に背く故、その乱を鎮めよ」と吉備武彦・大伴武日連らの軍を従えさせて、東国遠征の命を下した。
尊は、途中伊勢の大神宮に参拝、倭姫より神剣を授かる。
幾多の苦難を乗り越えながらたどり着いた相模から上総に至る海上で、またもや大嵐の困難に会った。
尊の軍船を助けるために、自ら海神の怒りを静めようとして、愛妻オトタチバナ姫が入水。
その悲しみを残しながら陸奥の国を平定しての帰路、常陸国桜川に至りて兵を休め「東の賊もみな平定した。これもみな天照皇大神の御神徳と思う」と言って、伊勢の磯宮を桜川に移して皇大神を祭った。
磯宮を移して皇大神を祭ったのが磯部神社の始まりといわれており、これが神社縁起として伝えられている由来である。
(平成2年3月13日発行)
古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」目次