将門伝説【7】
阿弥陀堂縁起
羽田谷津坪(やつつぼ)の阿弥陀堂は、古くは常安寺(真言宗・本木楽法寺末)境内にありました。
将門はこの寺に叔父良兼に殺された妻「君の前」の菩提を弔うため、阿弥陀仏一体を寄進したといいます。
真壁郡郷土史には、この仏像の背後につぎのような銘が記されていたと述べています。
天慶元 戊犬(つちのえいぬ) 真壁羽田村
奉寄進阿弥陀一仏 栗本一本
西顯山
願主平親王将門后持仏也
別当常安寺 阿弥陀院
この銘文から推察されることは、常安寺は后神社の別当(兼務職)にあった関係上、将門は亡き妻の霊を慰めるために、自分の守り本尊である阿弥陀仏を常安寺に寄進したと思われます。
爾来(じらい)、連綿と続いた常安寺も廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により廃寺となり、寺の什器とともに、仏像も楽法寺へ移されました。すると間もなく、疫災が流行し羽田全戸に及んだため、村の人たちは「将門さまの祟りだ。」と信じ、常安寺跡に御堂を建て阿弥陀仏を楽法寺より持ち帰り安置したところ、疫病はおさまり村に静けさが戻ったといいます。
また、将門を逆賊とした時代に、この仏像の首が切り取られるという事件が起きました。ところが村に災危がふりかかったので、将門の祟りではないかということで、首を取り付けたところ、災いは除かれました。
今でも谷津坪の人たちは、阿弥陀仏を「おあみださま」と呼んで、旧暦2月15日に供養の祭りをしています。その日は奇しくも将門が戦死した日、天慶3年(940年)2月15日です。
この御堂に立つと、妻「君の前」へ捧げた将門の愛の証の残照が感じられます。
合掌
大国玉は「君の前」(将門の妻)の出生地と伝えられていることから、将門に関する地名、遺跡、伝説が数多く残っています。
木崎の地名も、親皇となった将門の后(きさき)(天皇の皇后(きさき))ということからつけられたが、後に不敬になるということで、今の木崎になったともいわれています。
ここに祀られている「后神社」のご神体は平安期の作といわれ、五衣垂髪の女人像で将門の妻「君の前」といわれ、現在も祀られています。
ところが幕末になり、青山延光(のぶみつ)(水戸藩士、大日本史編纂に尽力)の「后神社考」による新解釈がなされ、后神社のご神体は、反逆の将「将門の妻」などではなく、大国主命(おおくにぬしのみこと)の后「須勢理毘売命(すせりひめのみこと)」ではないかと断定しました。
日本最大の悪人、叛臣と位置づけた水戸学派、大日本史の尊王思想から見れば理解できることと思われます。
これを明治初年に氏子等が信じ、木崎の地より移し大国玉神社に合祀し、后神社の境内の立ち木を払い下げたといいます。
するとこの年、村に疫病が発生、木崎全戸に及んだため、村人は「神社を移した罰だ、将門さまの祟(たた)りにちげいねえ!」と恐れ、后神社を元に戻し霊を鎮めたところ、疫病はたちどころに絶え、村に平和が戻ったといいます。
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▲現在の大国玉神社
文:舘野義久(大和村教育委員)
取材協力
太田良正さん(宮)
堤高明さん(羽田)
飯島光弘さん(本木)
須藤一男さん(羽田)
小林正俊さん(羽田)
勝田正三さん(羽田)