古墳探検記【2】
御室大日塚
里人(さとびと)の信仰の対象となっているこの石窟は、周囲100m余り、高さ6m余り、それも三段構えの築造です。
石棺上部の天井石は、長さ1.2m、幅1.3m、厚さ0.3mもある御影石が3枚、両側の石はさらに大きく、長さ2m弱、高さ1m、厚さ0.35mという一枚岩が両側を支えています。
奥の玄室の石は、幅0.7m、高さ1m余りの一枚岩と小石で築かれています。石棺の天井岩2枚と玄室部の壁面は、一部が完全に保たれ盗掘の破壊から免れ、当時の築造技術を保存しています。
これらの石材は、おそらく羽田北山の御影石と推察されますが、両側の火成岩は桜川の上流富谷山系より産出されたものと思われます。
これらの重量のある岩石を、どのように搬出し、ここまで運んだものか、想像するだけで胸がワクワクします。(傾斜のきつい斜面を、何組もの山ソリを使っての引き上げだったろう。)
「夏草や つわものどもの 夢のあと」という芭蕉の句がありますが、この古墳に立つとその感を強くします。
墳墓を築造した豪族の魂胆(こんたん)と、彼らに従い懸命(けんめい)に奉仕する人間像が交錯(こうさく)し、古代への回帰(かいき)を余儀(よぎ)なくされます。
この墳墓の設計には、○○○○○や占星術(せんせいじゅつ)に精通した技術者○○や一般の労務集団、これらを統轄(とうかつ)する指揮官(リーダー)がいたことでしょう。彼の針ある声が山々に木霊(こだま)しているような気がします。
墳墓の築造に励む多くの人々の昼餉(ひるげ)、西の空に夕日を拝み下山する人の群れ、今、この人たちの姿は想像の彼方にあります。あるのは、破壊され盗掘の憂き目に会い、煙滅寸前の古墳の姿です。
(きっと、被葬者は副葬品などが後世の盗掘者に荒らされないようにという願いをこめて、武人の埴輪を古墳の上に立たせたのでしょう。)
鬱蒼(うっそう)と茂る樹木、蔦(つた)や篠藪(しのやぶ)の群生、身の丈ほどに繁茂(はんも)する夏草を踏み分けて進むと、人間の侵入を待っていたかのように寄せくる蚊の大群、そんなところに「御室(おむろ)大日塚」と呼ばれる石窟(せっくつ)(古墳群)があります。
ここは、5世紀末ごろ新治国(現在の笠間市、岩瀬町、真壁郡、下館市、下妻市の範囲)を治めていた有力豪族の墳墓(ふんぼ)で(青木・堂の入古墳群)の中でも最大級の墳墓です。
この周辺は、羽田北山(標高129.9m)より北に延びる円錐形の山塊(さんかい)で中腹に青木神社が祀(まつ)られ、山全体が古墳かと思わせる形をしています。
薬王寺(天台宗)口より、白山・滝ノ入・中島・金ヶ入・古山の小字名を有する里山は、桜川辺りから眺めると、巨大な前方後円墳を思わせる優美な姿を現してくれます。
文:舘野義久(大和村教育委員)
取材協力
鈴木清さん(青木)
鈴木勲さん(青木)