平成3年度
「いわせ義民伝(中)」
旧暦の十月十四日、秋晴れの肌寒い天気であった。加茂部村並松の松林に集合した農民たちは、四十二か村中二十七か村であったが千人近い大群衆となり、その熱気は天高くあふれるほどどよめいていた。
「一揆だっ!一揆だっ!」の声揚がる大群衆を前にして、高所に立った磯部清太夫は「皆の衆よ、わしらは決して乱暴狼籍に御城下に行くじやねえぞ!おれたちみんなの生きてゆけない、せっぱ詰まった苦しみを分かっていただくためにお願いに行くのだ。くれぐれも勝手なことをしないよう頼みますぞ!」。
そして農民一行は、実らない稲束を竹ざおに掲げてワイワイガヤガヤ、清太夫・太郎左衛門らを先頭に笠間城下に押し掛けたのであった。
急報で城下入り口の涸沼川の橋に駆け付けた藩役人に、農民たちは不作による苦しみを訴え、年貢未納分を免除してくれるように要求した。
藩はこの訴えに対し、ようやく明日が納入期限である畑方金の日延べを認め、その他も善処するということにした。
日没が迫り、農民たちは納得しないままも引き揚げ解散したのであった。
(平成3年4月16日発行)
「いわせ義民伝(下)」
藩への直訴から七日過ぎた旧暦の十月二十一日、再び大岡原へ集まった農民たちは、米作年貢の半減と畑方金の五か年年賦を決議して、名主代表を通じ藩へ再直訴した。
笠間藩では、提訴を採り上げて秋作の状況を調べたが、すでに刈り入れも終わっており、正確な収量は分からなかった。
しかし、山外郷は三分五厘の減免を認められることになった。
このあと藩は、幕府の勘定奉行であり、年貢定免制の推進役である神尾春央に一揆処理の指導を仰いだところ、「定免制は続行し、首謀者は厳罰にせよ」と指示された。
これを受けた藩役人は、一揆指導者の割り出しに努め、磯部清太夫・萩原太郎左衛門・藤井佐太郎ら三十名を捕らえた。
尋問の結果、判決は磯部清太夫と萩原太郎左衛門が死罪獄門と田畑没収という重い処分となり、藤井佐太郎は死罪、その他二十七名の農民には十日からの入牢という処罰が下された。
そして翌年の二月二日、死罪獄門の二人は、笠間市福原・並木の枕石に三日間の晒首にされたといわれ、この後、小塩地区の街道沿いに三体の石仏を建立、鎮魂供養されたのが「義民地蔵」である。
(平成3年5月21日発行)
「羽黒宿 加茂郡」
お羽黒山の南麓に古くから上町として栄えた宿場が「加茂部宿」である。
地区の公民館地内には、安水入年建立の「二十三夜塔」や「光明真言供養塔」がある。後者の碑には「寛政二庚戌天羽黒駅」と文字が刻まれており、この地に羽黒宿場の駅があったことをうかがわせる。
この公民館の東方、旧笠間街道と現在の国道50号線とを結ぶ地帯を「根古屋」と呼ぶが、「関八州古戦録」には、笠間城主・笠間大和守心休の甥がこの地に住み、「根古屋敷」といわれたと記されている。
また同公民館の西側で、見事な枝振りの松がある足立家には、江戸初期の笠間藩主・井上河内守の重臣と思われる井上内匠正持からの書状が残されており、これには、鴨部村庄屋・徳衛門殿として、「自分も隠居して茶屋を造ったので、ぜひ庭の松を一本もらい受けたい」と記されている。
(平成3年6月18日発行)
「大納言様と加茂(鴨)神社」
加茂郡公民館から南へ水戸線を越えると、道路の両側に二本の杉が門柱のように植えられており、加茂神社の鳥居の役目を果たしている。
ここは、西から通じる道路と交差する場所で、鴨(加茂)地区の入り口である。
この地の道路西斜面には五輪塔が祭られているが、代々、加茂神社の神官である加茂部氏の伝えによれば、現在テレビ放映中の大河ドラマ「太平記」に登場する南朝の大忠臣、大納言・北畠親房の末子の墓で、「大納言さま」と呼ばれているそうである。
南朝の勅命により関東へ下向した親房の末子は、加茂神社に南朝の戦勝を祈願した祈、加茂部氏の息女と結婚。養子となったが、家柄の立派な北畠の姓を捨てきれず、数代の間「北畠」を名乗ったそうである。
これより南東の社が、平安初期の延喜弐神名帳に記されている「鴨神社」で太田田根命を祭る祭殿が厳かな椎の古木に囲まれて、遥かな歴史を漂わせて鎮座している。
この神社は、昔から人々の尊敬厚く、伝えによれば、古くは源頼義が「前九年の役」の戦勝を祈願。戦国時代は太田の佐竹氏。
江戸期になっては、水戸黄門として知られる「徳川光國」や代々の笠間藩主の尊宗を受けたといわれる。
(平成3年7月23日発行)
「結城合戦と加茂郡氏」
鎌倉の関東公方・足利持氏は、関東管領・上杉憲実との不和から上杉討伐を決意、幕府軍との戦いとなった。
この結果、敗れた持氏は、永享十一年二月鎌倉永安寺で自害した。
このとき、持氏の遺児である安王丸・春王丸兄弟は日光山に隠れた。
この後、二人は加茂神社に「征夷大将軍となった暁には、加茂社に所領を寄進する」旨の願文を捧げた。
そして加茂部加賀守らを従え、太田氏の守護する橋本の吉所城に旗揚げをした。
時は、永享十二年三月四日(旧暦)、桜の盛りを迎えたころであった。
吉所城で兵を挙げた安王丸・春王丸らの一行は、三月十三日に橋本を出発。途中、小栗城・伊佐城(下館市)と寄りながら結城氏朝に迎えられた三月二十一日、結城城に入場した。
ここに、以前持氏に恩を受けた将兵らも集まり、再び幕府軍との戦闘が始められたのであった。
この戦闘は、「結城合戦」といわれ、約一年にわたる長い戦乱となり、加茂部加賀守守満は戦死、安王丸・春王丸も捕らえられて処刑された。
時に安里丸十三歳、春王丸十一歳の若さであった。
(平成3年8月20日発行)
「鴨の鬼婆」
この話は、今から千年ほど昔のことである。
都の朝廷に背いた陸奥の国の阿部宋任貞任一族討伐のため、源頼義は奥州へと向かった。
その道中兵士を募りつつ加茂神社に来ると、里人が参拝を済ませた頼義に向かい言上した。
「この山には、それはそれは、とても恐ろしい妖婆が住み、胎み女を殺してはその胎子を食ってしまうのです。
相手が神通力を持っているので、どうか将軍さまのお力で退治していただきたいのです」。
この願いを聴いた頼義は、大軍を集めて山を取り囲んだ。
やがて加茂の神に深く祈願した後、弓に矢をつがえて神仏に念ずると、不思議なことに一天にわかに雲り、車軸を流すような大雨雷鳴とともに光る稲妻、その光に照らし出されたのは、銀髪をなびかせ耳まで裂けるかと思われる真っ赤な口の妖婆の姿であった。
この時、頼義が放った矢は狙い違わず妖婆の喉仏へ。
やがて頼義は、竹の先に妖婆の生首を刺して鳥居に晒した。
こうして近郷の村々を救ったのだが、その後血で汚された鳥居は壊されたまま再建されることなく、参道入り口の杉が鳥居の役目を果たしている。
また加茂部地区では、現在に至るも竹を植えると災いがあるということで、少しの竹林もないそうである。
(平成3年9月17日発行)
「高幡ささら舞い」と「獅子塚」
太平記時代、「後醍醐天皇」が奉納したといわれる「大磐若波羅経」で知られる加茂神社の近くに「獅子塚」という丸い塚があり、これにまつわる話が現代にまで伝わっている。
昔、高幡地区に「高幡ささら」という若衆芸能があった。
ある年、一行が加茂神社の御祭礼に「ささら舞い」を奉納しての帰り道、山道を獅子塚まで来てみんなで一休みしたが、いつしかぐっすりと寝込んでしまい、気がついた時には大切な獅子舞いの衣装はすっかり姿を消しており、いくら捜しても見つからず「キツネの嫁入り衣装にと、キツネが化かして持っていったのだろう……。」ということになった。
それ以来、高幡地区ではささら舞いをすることもなくなり、獅子塚だけが昔語りを伝えている。
この獅子塚は、加茂部集落の「島」地区にあり、地区中央の台地の杜には、八つの塚があったといわれており、「八ツ塚稲荷」が祭られている。
(平成3年10月15日発行)
「加茂郡・島地区」と「高幡地区」
「加茂郡・島」地区と「高幡」地区は、同一地区といってもよいほど密接につながっており、立派な構えの屋敷が多い。
なかでも「庄屋」の屋号をもつ安達勝弥家は、とりわけ堂々たる家構えである。
この安達家には、永禄年間から伝わる「獅子頭」や「阿弥陀如来座像」、高幡愛宕様の「判木」などが保存されている。
さらに屋敷内の山林には、先祖・藤原秀郷を祭ったといわれる「五輪塔」や「持仏観音像」もある。
また、同地区には「佐伯」の姓も多く、古老の話によれば、「江戸時代に北陸地方から移住した農業移民で、「加賀白山」を守護する氏族として有名な「佐伯氏」の出」だそうである。
このうちの一軒、「佐伯東」氏の屋敷前を南に進む狭い道がある。昔、この道は入郷地区へ通じる唯一のもので、入部方面の子供たちは、この道を通って羽黒の高等小学校(現・羽黒小)ヘ通ったそうである。
そして、この道の東側には「二十三夜塔」の碑が立ち並び、傍らには、室町時代に創建されたといわれる「熊野神社」が祭られている。
(平成3年11月19日発行)
「松田城界隈」
松田地区に広がる日大岩瀬高校のグラウンドは、明治五年の学制施行まもなく「松田小学校」が開設された所で、戦前までは松林が長く続く丘陵であった。
高校南の道路を曲がりながら下ると、小高い丘がこんもりとした松に包まれているのが目に入る。
この杜が「神明様」で、天照天皇大神の祠が祭られ、ここを中心とした場所が松田氏の居城と言われている。また、昔、この近くで城の礎石が発見されたといわれ、東の「池田」と言われる水田では、土地改良事業の際に池跡のような所が見つかったと言われている。
一方、南側は「杉町」「矢崎」の地名があり、古老の話によると、古く杉町には遊女宿があってにぎわったらしく、矢崎は弓の稽古傷であったらしい……。
神明様東側の道を南に、そして西に、地区の中心を回るこの道を「昔の空堀の跡らしい」と言う古老もあるが、道が交差する十字路西側には庚申の碑が祭られ「右日光、左加波」と記されて、青柳から八郷方面に至る「柿岡街道」の大事な道標にもなっていた。
(平成3年12月10日発行)
「松田 不動堂辺り」
松田庚申の碑の北側は、江戸時代の庄屋で名主だった猪瀬家の広い屋敷のあった所である。
この猪瀬家は、代々久左衛門を襲名していたらしく、寛延三年の名主・久左衛門と松田村百姓出入によれば、松田村では八軒の潰れ百姓ができたが、それらの年貢を全部百姓に押し付けただけでなく、多くの不正を働いたという訴えであったが、裁きは、百姓・藤市らが悪意をもって訴状を作成したということで死罪、百姓甚兵衛、同じく安衛門は所払いとして笠間領内からの追放に、その他数名は五日間の手鎖処分となった。
なお、訴えられた名主・久左衛門にはお咎めなしということであった。
この猪瀬家から、明治十年の西南戦争に、東京鎮台第二後備軍の付属司令副官として猪瀬唯司なる人が参加したといわれる。
庚神様から少し南に歩くと、「松田不動」が祭られている。
この境内に「お舟石」という大きな手洗石があるが、これは昭和二年、塔の峯の中腹にあった「舟石山不動院常楽寺」より運んだものといわれる。
(平成4年1月10日発行)
「白山神社辺り」
「松田不動堂」前を南に進むと、道は東に曲がり曽根方面へと向かうが、そのまま南に山道を登ると「雨引山・楽法寺」への参道となる。
この辺りを「原山」と呼び、登り口に数多くの石碑が立ち並んでいる。
その一つ、安永八年に建立された二十三夜塔には「右あまびき、左あたご」と記されている。
また西側の丘陵は、「殿様墓場」と言われ、かつては多くの五輪塔があった所で、南北朝時代の戦跡かと思われる。
このなだらかな峯の北側に祭られているのが、「白山神社」で、地区の鎮守神となっている。
祭神は伊弉諾尊と言われ、永享三年(室町時代)、時の領主であった土岐氏が祭田を寄進。
正保(江戸時代)半ばに社殿を改築したといわれ、合祀神として「神明」「山神」など十柱を数え、境内末社として素戔嗚尊を祭る「八雲神社」がある。
由緒深い同神社境内には、松田の大杉として名高い千年杉が近年まで現存していた。
しかし、度重なる落雷で頂が枯れたため、伐採されたのが借しまれる。
「天然記念樹」であった。
(平成4年2月12日発行)
「関東六城」と「中郡城」
「中郡城」は昔、新治郡が東・中・西の三郡に分かれていて、その中にあったので「中郡」といわれたそうである。
岩瀬町の数ある城跡のうち、どこに中郡城があったのかは、いまだにはっきりしないが「松田城」もその候補の一つであることは間違いない。
さて「中郡氏」は、蓮華王院領時代から「地頭職」としてあり、南北朝時代には北朝側の足利氏に組して中郡城を守護し、南朝側に反旗を翻していた。
しかし、廷元四年、北畠顕時が中郡城を攻め、城の守りとして北畠顕国を置き、南朝側の拠点として関東六城の一城に数えられることになったのである。
それから五年、南朝方の重要な城として「関城」「大宝城」などと共に足利方に徹底抗戦の構え崩さず死守していたが、関城も大宝城も足利勢に敗れた。
この結果、北畠親房は吉野に帰り、伊佐城の伊達行朝は奥州に逃れて真壁氏も降伏、残る北畠顕国の守る中郡城に高野師冬の大軍が攻めるに及び、あえなく落城。
顕国らはわずかの手兵と共に逃れて、後に馴島城(竜ケ崎市)で南朝の旗を挙げたが、足利幕府軍に捕らわれて刑場の露と消えたのであった。
この顕国の霊を弔うために建立されたものか、松田山中・「塔ノ峰」には、十重塔とも侍従塔ともいわれる供養塔がある。
▲中郡城跡か?と言われる神明様の森
(平成4年3月17日発行)
古山 孝 著「ふるさと散歩 いわせものがたり」