よみがえる金次郎【壱拾六】~【壱拾九】


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【壱拾六】反乱の収束
【壱拾七】分度
【壱拾八】尊徳の苦悩
【壱拾九】掛縄積立



【壱拾六】反乱の収束

 弘化4年(1847)11月、領主川副氏の法外な要求に、青木村農民はやまごも山籠りという手段に出たのです。この山籠りに参加した者は三十七名、不参加者は名主、組頭など十五名と、村を二分する騒動となるのです。
 
 村再建のため、二宮尊徳に堰築造の願いを全員で参加、仕法は成功、やっとひと安心という時のできごとでした。

 この事態が悪化すれば、首謀者の処罰など大変なことになります。山籠りに参加しなかった者が、常法院主、薬王寺住職、大和田山城神官と相談、笠間領富岡村名主等の協力を得て、懸命の説得が成功、十一月二十九日薬王寺へ引き揚げたのです。

 ちょうど運好く十二月三日、幕臣となり真岡代官所勤務となった二宮尊徳が来村、村民を集めたところ、不参加の者があったのに驚き、理由を尋ねると山籠りの一部始終を聞かされました。そして一同は尊徳に心から詫び、寛大な処置を願い出るのです。

 そのあかし証として山籠りをした三十七名と、参加しなかった者七名の連署で、仲裁の常法院、薬王寺、大和田山城正及び笠間領名主宛の証文を提出、尊徳へ事を穏便(おんびん)に取り計らってくれるよう頼みました。

 その時の証文は、次のようなものでした。

「差入れ申す一札の事」

 今般私ども村々小前(こまい・小百姓のこと)年貢上納は勿論(もちろん)、年貢冥加米(みょうがまい・臨時の上納米)、永(畑作)皆済引き延しに付、村役人より去月二十六日、定便をもって上納致すべき旨、申し付けがありました。

 愚昧(ぐまい・おろかでものの道理の分からないこと)な私どもは、心得違いを致し、取りとめもなく談合相企て(だんごうあいくわだて)ました。

 (中 略)

 何卒、愚昧の私どもの不埒(ふらち・道理にはずれた不届きなこと)により起こしたこと、御上様(領主)は勿論、村役人中までお詫び致し候上は、百姓を無難に相守り、百姓相続できますよう願い上げたてまつり候。後日のために、一礼差入れ申し上げます。弘化4年末極月(ごくげつ・12月のこと)

 御趣法(仕法)惣代 勇助
 判 頭       傳吉
  同        浅次
 御趣法惣代     嘉兵衛
 判 頭
  同        儀兵衛
        (以下名前略)
  青木村常法院 様
  同 大和田山城様
  同 薬王寺  様
  小幡新田村清助様
  富岡村仲右衛門様

 尊徳は、この願いを聞き「私が在村せずとも間違いを起こさず、仕法を守り出精して欲しい。」と諭さとし、この一件を許したのです。

 そのうえ、村役人及び領主にも処罰を行わないよう願い、これを了承させ一人の処罰者も出さず解決したのです。

 当時、領主権力の強かった時代、徒党を組んで訴えることは、死罪・遠島にもなることがありました。処罰者なしに済んだことは、尊徳の農民を愛する心と政治力があってのことでした。


▲常法院頌徳(しょうとく)碑
 青木北原宮本家墓所内にある。

 山岳仏教天台宗本山近くの修験者(山伏)渡辺順栄翁は文政5 年4 月10日生(1822)、明治38 年9 月15 日没(1905)二宮尊徳の青木村仕法のよき理解者。人格・識見があり、村民の人望も高く、領主と村民の問題解決に尽力。常法院は現当主宮本戌一郎氏屋敷内にあった。

[文:舘野義久]



【壱拾七】分度

 尊徳の生きた幕末は、まだまだ衰えたとはいえ、幕府の権力が強いときに、農民の幸福を願っていたということで、領主と事を構える革命的行為(百姓一揆)に尊徳は、否定的な考えを持っていました。
 常に、農民がどのようにすれば幸福になれるかを考え、その筋道を立て実行した方が、生活の立て直しに役立つと考えたのです。

 農民に希望を与え、明日への展望を切り開くことは、尊徳の考えた農村改革(尊徳仕法)が、当時としては最善の方策でした。

 この仕法というのは、重税にあえぐ農民の生活を安定させるには、領主からの税をゆるめる減税策が目的だったのです。どんなに農民が努力しても、重税の下では生きる意味がないのです。
 堰の築造も、耕地の改良も、水路の整備も、それが生産力を高めれば高めるほど、一方では重税となり、領主を利するだけでは農民にとっては、たまったものではありません。

 だから尊徳は、桜町(二宮町)でも、青木村でも、下館藩でも領主に対し「分度(ぶんど)」を立てない改革には力を貸せないという、強い信念で農村復興策を引き受けるのです。「二宮の仕法というのは、上を制して下を厚くするもの」といって、反対する武士階級があったことも事実でした。

 青木村の領主川副氏も、尊徳との分度の約束を破って重税を課してくるため、尊徳と反目(はんもく)することが多々ありました。

 「分度」とは、尊徳の考えの中心で、身分や収入に応じて、支出に一定の限度を設け、その範囲で生活し、余りを生む生活設定をいう。

 尊徳は、自分を政治家だと思ったことはありません。どこまでも農民の立場に立って物事にあたった意味では、偉大な農政家でした。尊徳は「百姓は、田畑を耕し、立派な収穫をあげるのが一番よい。百姓が政治に口を出すと身を滅ぼす元になる。」と戒め(いましめ)ています。

 尊徳が青木村仕法に取り組んでいた時代、イギリス、フランス、ロシア、アメリカなどの外国船が来航し、開国を迫っていました。
 外国船を打ち払えとか、打ち払わないとか、という攘夷(じょうい)論が盛んになりましたが、尊徳にとっては、それよりも目の前の飢えた農民を救う方が大問題だったのです。それが尊徳的(農民出身の二宮金次郎)な生き方とも言えるのです。

 青木村の農民も、徹底した尊徳の行き方に共鳴、自分の身の丈にあった分度ある生活を守り、知恵を出し合い、堰の修復に努め、村の繁栄を願いつつ事に処し、自立の道を歩み続けたのです。


▲青木用水堰 桜川しめ切り用水堰全図 嘉永3年(1850)3月 


▲青木村用水堰枠組全図 水門枠組
 二宮尊徳は嘉永元年幕府に登用され幕臣となり、百姓のため、領主川副氏から仕法を引き継ぎ堰の修復を行っている。その時の用水堰築造と水門枠組図(廣澤光一郎氏所蔵)
  
[文:舘野義久]



【壱拾八】尊徳の苦悩

 仕法の結果、旗本領青木村の耕地は、40町歩から70町歩に増えていたのです。この旗本領はもともと経済的には、生産性が脆弱(ぜいじゃく)なくせに、徳川直参(じきさん)などと言って専横(せんおう)な振舞をする特殊な性質を持っていたのです。

 7割もの耕地の増加に、年貢は25石から90石へと、4倍近い数字がそのことを如実(にょじつ)に物語っています。そのうえ畑作の金納も2倍に増えていたのです。

 そんな領主川副氏の仕打ちに歯ぎしりする尊徳。約束が違うと怒る青木村の農民。その責任を一身に背負う尊徳。そんな中にも、一抹(いちまつ)の光明を見出す。家数も20軒増え、人もそれにふさわしく増加し、村の雰囲気に活気が見えてきました。

 尊徳としては、領主に収入の増えることを約束しているとはいえ、農民にも精を出せば、ほどほどの暮らしを保護すると言ってきた手前(領主に対する約束を果たしただけで、これでは青木村の農民を裏切ることになる。)と、心を痛めるのです。
 尊徳にも出来ることと、出来ないことがある厚い壁「封建制度」の狭間(はざま)で苦悩するのです。

 大名領(旧雨引村、真壁町など笠間藩牧野領)ならば五公五民、六公四民という枠が決められ、作柄によって増収となれば農民の手元にもそれなりの残りの米も増え、生活に潤いが生まれます。
 それが豊臣秀吉以来の定免制(じょうめんせい)で、増収分を全部取り上げることはしなかったのです。
 大名領は、幕府の藩への規制があったため、農民を疲弊(ひへい)から守り、緩和していたのです。それが旗本領では、歯止めがきかず徴税だけが先走り、農民を苦しめたのです。

 青木村の行く末に不安を感ずる尊徳は、報徳金の融資などによる援助を続けますが、尊徳自身の幕臣登用、日光神領の仕法開始と、多忙な日を送る中で高齢化してきます。(青木仕法47歳、幕臣56歳、70歳没)
 やがて青木村との縁も薄れていくのですが、村民は、尊徳の手になる堰を守る事業には、寝食を忘れ協力するのです。

 「領主にまかせておいては、堰の老朽化を防ぐことは出来ない。二宮様に申し訳が立たない。」と、昔のように田の水回りも悪くなるという悪循環を断ち切るため、青木村の農民は、毎年堰の修復を「自普請(じぶしん)」で続けてきたのです。

 尊徳から教えられた勤労の尊さ、分度ある生活、積小為大(せきしょういだい)の心を忘れず村づくりに励むのです。


▲為無縁先祖代々菩提営之碑
天保6年(1835)村中供養塔青木阿弥陀墓地内に建立
生活に苦しみ離村した59名の元青木村農民の名が刻まれている。

[文:舘野義久]



【壱拾九】掛縄積立

 青木村の農民は、常に洪水による堰の大破を恐れていました。これを修復する費用をどのように調達したらよいか、尊徳に教えを乞こうたところ「掛縄積立(かけなわつみたて)」という方法を教えたのです。

 「人間この世にあるは職、一日も職なくしてそれは叶わず。昼は昼の業あり、夜は夜の業なく、早く寝るが如きは財宝を捨てて、家を貧しくする基なり。故に男は夜業(よなべ)として必ず毎夜縄をなって出すべし。怠りてなさざれば買っても出すべし。女は毎夜糸をひき男を助くべし。」と、堅く誓約し、村役人をしてひそかに巡視させ、勤怠を報告し、賞罰を厳しくたため、農民その意味を悟り、夜業に励んだといいます。
 お徳と吉兵衛という夫婦はよく働き村の模範とほめられ、「おらが村には名物でござる糸ひきお徳に、縄ない吉兵衛」と歌われました。

 このようにして、5年間積み立て30万4千尋(ひろ)(1尋は両手をひろげた長さ、約1.8m)、この代金268両余、これらはすべて尊徳が買い上げ、勤労の成果を実践して示したのです。

 尊徳大いに喜び、「塵も積もれば山となるの諺(ことわざ)の如く、皆の眠りて過ごすべき僅少の時間より、生じたる金子(きんす)なり。皆もこれをもって貧富、死生を握れる。堰の普請に充あてよ。」と諭して与えたのです。( 積少為大(せきしょういだい)の精神を教える。)

 村民はよく尊徳の教えを守り、毎年2月大字の集会を開き、堰、道路、橋梁の普請、補修などを相談、共同事業としてきました。青木村は尊徳仕法の成果として、これらに要する費用を、旧旗本領より共有林20町6反11歩、積立金250両を保有していました。

 特に堰普請には、畚(もっこ・縄を網状にして四隅に綱を付け、土砂などを入れ運ぶもの)を必要としたので、毎年正月に1戸1人の割で、わらを持ち坪総代の家に集まり、縄をない1日かかって1人1枚の畚を仕上げ、普請の際にすぐ役立つように用意していました。

 昭和のはじめ頃の堰普請や修復は、ブルドーザーやバックホウもありませんでしたから、川の床掘りも、土砂の運搬はすべてが手作業、その中で二人でかつぐ畚は、大事な用具だったのです。

 新市「桜川市」誕生に伴い、この号をもって二宮尊徳を終了いたします。

 現代の厳しい社会状況にあっても、尊徳の教えは「青木村」でも息続け、これからの生き方の道しるべとなっております。

 資料提供者をはじめ、多くの方々のご協力に深く感謝し、この章を止めたいと存じます。


▲二宮尊徳建造の青木堰(明治中期の頃)
 (青木-舘野義久蔵)


▲ 昭和初期の青木堰普請修復工事の様子
 「よいとまけ」の滑車(かっしゃ]で床掘り


▲ 2人でかつぐ畚 小田原尊徳博物館蔵(青木より出品)

[文:舘野義久]



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