よみがえる金次郎『二宮尊徳』top
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【壱】手本は二宮金次郎
【弐】校庭の金次郎像
【参】国定教科書と尊徳
【四】金次郎の生い立ち
【五】青木村の変遷
【壱】手本は二宮金次郎
薪(たきぎ)を背負い読書する少年二宮金次郎を見るにつけ、昭和7年生まれの私は、校門の傍(かたわ)らに建つ金次郎像に頭をさげ、帰りにはオルガンに合わせ、「二宮金次郎」を合唱してから下校したことを走馬灯のように思い出されます。
唱歌 『二宮金次郎』 一、 柴刈り縄ない 草鞋をつくり 親の手を助け 弟を世話し 兄弟仲良く 孝行つくす 手本は二宮金次郎 二、 三、 |
更に国定教科書の「修身」では、金次郎の少年時代の苦労、勤労、倹約、親孝行の大切さを教えられ、大人になったら金次郎のように艱難辛苦(かんなんしんく)を乗り越え、世のため人のために尽くす、人間になるよう誓った時代です。
その教科書に載った人物が、私の住む青木村(旧大和村青木)に、人々の願をかなえ堰(せき)をつくり、農村救済の術ともいうべき「青木村仕法(しほう)」を実施したことを知った時は、大きな驚きでした。
この堰から、灌漑(かんがい)によって、青木田圃(たんぼ)(約88ヘクタール)は、秋になると黄金の稲穂が波を打つ美田と化すのです。また、この堰はかつて青木や岩瀬の子供たちの天然のプールとして、夏場の楽園だったのです。
ところで、子供心に描いた金次郎像が戦後音をたてて崩れたのです。帝国日本の臣民(しんみん)として、最も期待される人間像として、時の政府(軍部中心)に利用され、徒(いたずら)に金次郎の少年時代のみが意図的に変形されたため、「保守反動」のレッテルを貼られ、ことごとく否定された時期もありました。
しかし、現在高度成長の波が止まり、国土や農林業はまさに荒れなんとしています。そのうえ、日本人の心の豊かさが枯れ、人間関係の断絶・退廃が進み、二宮尊徳が最も恐れた“人心の荒廃恐るべし”の状況となっています。
21世紀の今、このような社会状況の中で、再び二宮尊徳がよみがえり、農村復興、日本の改革の旗手、実践的指導者、救世主として再評価されつつあります。幸い青木には、二宮金次郎に係わる史料や遺跡が残されています。これらを参考にしながら、尊徳(金次郎)の生きた時代と現代を重ね合わせ、その実像にせまりたいと思います。
[文:舘野義久]
▲現在の青木堰(高速道路上から)
二宮尊徳と深いかかわりのある青木(尊徳仕法の地)の人達に「二宮金次郎のこと知っているか尋ねますと」、「小学校の校庭にあった金次郎像と、青木堰のことは知っている。」と答えてくれます。
また、村内の多くの人達も「薪(たきぎ)を背負い、読書する金次郎像」については、ノスタルジア(郷愁)を感じながらも知っているといいます。若者の中には、今の時代本を読みながら歩いていたら、交通事故にあってしまうという話も返ってきます。
ところで、なぜそれ程までに、小学校に金次郎像が設置されたのか、当時の文部省が命令したわけではありません。
卒業生や地域の篤志家(とくしか)(昭和15年岩瀬小学校寄附太田平太郎氏)が寄贈しているところに、この像の特徴があります。
薪を背負って本を読む金次郎像の成立については、尊徳の高弟、富田高慶(相馬藩士、尊徳の娘文子の夫)の「報徳記」にある「採薪の行き帰りにも、大学(中国の古典)を懐にして、歩みながらこれを唱して、少しも怠らず」の記述を根拠にしていると思われます。
報徳記では明治16年(1883)宮内省より発行されますが、同23年には、大日本農会が出版し、広く一般に普及されました。
そして、薪を背負う金次郎の画像は、幸田露伴著の「二宮尊徳翁」のさしえ挿絵がはじめてです。
後に、農商務省の委託を受けた秋日田家図(幸野楳嶺画)に、薪を背負って本を読む少年金次郎の絵が登場します。
明治43年(1910)になると、岡崎雪聲(せつせい)の鋳金による金次郎像が制作され、東京彫工会に出品されます。
それを宮内省が買い上げ、明治天皇の机上に置かれ愛用されていたことが、二宮金次郎像を世に広めるもとにもなります。現在この作品は、明治神宮の宝物となっています。
実際に金次郎少年像が、全国の小学校の校庭に立つようになったのは、昭和に入ってからです。
しかし、第二次世界大戦後これまで日本の教育の考え方が逆転し、二宮尊徳に対する価値観までもが否定され、私たちが朝な夕な仰ぎ見た少年金次郎像が、校庭の片隅に転がされたり、取り片付けられる始末です。
今、当時の混乱期をふりかえりますと、敗戦の衝撃・虚脱感は、もってゆきどころのない感情となって、罪のない少年金次郎像に投げつけていたように思われます。
[文:舘野義久]
日本の教育史上に二宮尊徳が登場するのは、明治37年(1904)の国定教科書(修身)に取り上げられたことからです。
そのいきさつについては「二宮翁と諸家」(青木・山崎文雄氏蔵)に記されています。
この本(明治39年出版・留岡幸助編)の中にある―学説上に於ける二宮翁の地位―で、井上哲次郎(東京帝国大学教授、歴史学・哲学文学博士、貴族院議員)は、尊徳が国定教科書に導入されたことについて、次のように述べています。
「国定教科書に二宮翁を加えたるは、最も選の宜しきを得たるものとい謂う可(べ)し。我国史中模範人物として中江藤樹(なかえとうじゅ)、貝原益軒(かいばらえきけん)、上杉鷹山(うえすぎようざん)あり。水戸の義公(ぎこう)(光圀)・烈公(れっこう)(斉昭)あり。共に是大和民族の精粋にして、後世の模範となすに足りるべきものに相違なきも、鷹山、義公、烈公の如きは大名なるが故に、一般平民にその縁すこぶる遠く、感化また及び難(がた)しきものあり。独り二宮翁は平民にして、而(しか)も農夫の子として成長せり。故に、農家の子女には境遇近く、境涯相似(きょうがいあいに)たり。境遇等(ひとし)が故に、教師は学びて怠らず。農家の子女もまた能(よ)く、二宮翁の如くなり得べしとの希望を抱かしむるにた足る。」と。
更に、井上は続けて、「国定教科書に、吉田松陰を加えんと欲しも、之(これ)に反対していわく、精神はともかく、彼は時の政府に反対したるもの。小学生徒には不適当の人物たるを免(まぬが)れず。」と述べ、二宮尊徳と吉田松陰を比較しています。
まことに、意味の深い選択であったことがうかがい知れます。現実を肯定し、黙々と生きる少年金次郎と、幕府を批判し、鎖国の国禁を破った国外脱出を企てた青年松陰、明治の元勲たちの師匠松陰を、修身教科書の模範人物にするのには、うしろめたさがあったのでしょう。ここに、明治政府の教育政策が金次郎を重んじる最大の理由があったのです。
ところで、「二宮翁と諸家」の所蔵者山崎家の先祖は、二宮尊徳の人格に傾注、勤・倹に努め尊徳の信を得ました。旧宅は尊徳によって青木築堰の折、残りの木材を用い造作されたものです。
▲「二宮翁と諸家」(青木・山崎文雄氏蔵)
青木には、高橋家(現当主高橋敬氏)、深谷家(現当主深谷禮次郎氏)、岡田家(現当主岡田宏氏)などもありましたが、いずれも改築され現存していません。
なお、尊徳は山崎家と谷中家(現当主谷中庄五郎氏)に、白檀の木を各々三本植えています。この木の原産はインド。高木で淡黄色、芳香あり、仏具・仏像・香料に用いられる銘木です。両家とも現在の住宅は、この木を床柱にして新築されています。
▲白檀の床柱(山崎家)
山崎家は、尊徳と深い関係があり、明治39年この本が出版されるや、いち早くこれを購入。尊徳精神の何たるかを学ぼうとしたものと思われます。この本が青木に在ったということは驚きであり、尊徳への関心の深さが伺い知れました。
[文:舘野義久]
【四】金次郎の生い立ち
二宮尊徳の成功の秘訣は、少年の頃から人の休んでいる時でも縄をない、草鞋(わらじ)をつくり本を読み、全力で生き抜くことに集中したからです。人並み以上の勤勉と、創造力が生んだ賜物です。
一家離散の運命に会い、伯父萬兵衛家の世話になる金次郎、「百姓に学問はいらぬ。学問は家を傾けるばかりだ。農業に励め。」と、激しく叱責(しっせき)する伯父でした。爪に灯(ひ)を燈(とも)すような倹約を強いられても、僅かな暇を見つけて本を読んだ金次郎。立身出世の鍵、原点はここから出発したのです。(家を興すためにこそ、学問は必要なのだ。そこには自立させてくれる道筋が書いてある。)この考え方は、生涯尊徳の信条となるのです。
伯父萬兵衛から見て金次郎は、よく働く、体格も立派、一端(いっぱし)の百姓になるのには、十分の素質があると見込んでいました。しかし、気にかかることがあったのです。それは働き方なのです。つまり、田や畑を耕し、種を播き、草を抜き、刈り取るなどの農良仕事に熱心だという働き振りではない仕草が見られるからです。
ときどき物事に異常なほどの執着を示すことがあります。ひと口に言って、金銭(ぜに)になる仕事に対する執念みたいなものが見え隠れするのです。
金次郎の周囲の百姓は、金次郎などはものの数ではない程の働き様でした。朝、星を仰ぎ、夕べに月を拝む、働いても働いても、これ以上働くことはないと言われる程、働く百姓たち、そうしなければ四公六民、五公五民の年貢は納められなかったのです。
そんな農民層から、何人の二宮尊徳が生まれただろうか。何人の歴史上の人物が出てきたでしょうか。領主権力と闘い、百姓一揆のリーダー佐倉宗五郎は有名です。二宮尊徳の生き方は、彼とも違うのです。単なる篤農家(とくのうか)ならば、数えることのできない程輩出しています。
赤貧(せきひん)洗うが如(ごと)き中から、金次郎は小田原・足柄の村一番の地主になったのです。(34歳にして、3町8反9畝9歩、小作米39俵3斗、自作米24俵1斗、持金350両)
尊徳の生き方を見ると、江戸時代末・封建社会の矛盾を見抜いた生き方をしています。当時、農村において唯一、ある期間免祖される土地は、開墾地だったのです。酒匂川(さかわがわ・小田原市)の氾濫に遭遇、田畑の埋没、荒地となった経験を逆手にとって蓄財に活かしているのです。
余裕のできた金銭で、田畑を買い求め、多くは小作に出しています。租税の高くかかる土地を耕すには、金次郎の労力は、余りにも貴重だったのです。自分は小田原城下での奉公、商業的活動に励み蓄財していたのです。
まきを背負い、本を読む金次郎の背中の薪は、自宅で焚くのではなく、武家や商家に売り、金銭に換えていたのです。
自ら耕すことをやめ、蓄財に努め、さらに武家の経済の立直しに辣腕(らつわん)を揮(ふる)う二宮金次郎は、「開墾と利殖」を組み合わせた独特の仕法を青木村(大和村青木)でも展開するのです。
▲まきを背負い「大学」を読む金次郎図(舘野義久蔵)
▲金次郎が読んだという「大学」の一節
[文:舘野義久]
【五】青木村の変遷
二宮尊徳による「青木村仕法」を考える場合、どうしてもこの村の地理的・歴史的な経過を考察する必要があります。
この村の地形は、雨引山・加波山から切り離された山塊で、青木古山は113メートル、羽田との境をなす羽田北山は130メートル、山塊最高の羽田山で172メートルと低く、針葉樹、広葉樹林が分布し、里山として農業に適していますが、水量が細くこの山から流れる水を、ため池に貯水し稲作の用水としています。
山麓扇状地の西、高森の台地との間には、岩瀬町山口「鏡ヶ池」を源とした桜川が貫流しています。
この河川は、排水的な役割しかなく、ここから揚水して稲作に利用したのは後の時代です。
6世紀頃、この山塊は朝廷の治めるところとなり、族長クラスから集落の上層ぐらいまでの古墳群となりました。
青木・羽田には古墳が集中、青木神社の南面「堂の入り古墳」からは、人物埴輪「ひざまづく武人像」(国指定重要文化財-国立博物館保存)が出土しています。そのことは、この地域に稲作が早くから開かれていた証です。
古墳から中世にかけての用水体系は、ため池のあり方に規制されていました。青木では、金ヶ入池・中島池・白山池等があり、水田耕作の主要な役割を果たしています。
山間部では、谷津田(羽田地区)が大部分、それが近世になると、用水を河川に求め、用水路による水田経営へと発展、耕地の拡大は飛躍的な生産を可能としました。桜川流域の青木・羽田の肥沃な洪積地も、鉄製農具のすき鋤によって開田され、生産量の増加ははかり知れないものがありました。しかし、そこには常に水不足の問題があったのです。
ところで、青木ほど領地の支配関係が複雑で、変遷の多かった村はめずらしいです。古くは真壁郡ともべ伴部郷に属し、中世になって中郡荘となり蓮華王院領(天台宗の京都三十三間堂寺院として有名)、その後、小栗氏、宇都宮氏、結城氏の支配をうけ、秀吉の太閤検地(1594)で西那須郡に属し、元禄になり真壁郡に編入されます。
江戸時代になると領主の変遷が激しく、慶長6年(1801)真岡藩主浅野長重の領地、その後、堀ちかよし親良、笠間藩永井直勝、豊岡藩杉原長房の飛地、土浦藩朽木種綱(くちきたねつな)、同土屋政直など藩領の飛地的存在から幕府領となりました。
それでも一時、天和3年(1683)村の約半分550石が高麗(こま)長好の知行となり、元禄11年(1698)から同15年(1702)までは、4人の旗本知行の分割支配も受けました。
それが宝永5年(1708)川副(かわぞい)新右衛門頼賢(よりたか)の知行となり、世襲されて明治維新を迎えるのです。
二宮尊徳仕法が行われる当時の領主は、川副勝三郎よりのり頼紀、知行石高は1550石(青木村の外新治郡川俣村、根本村、成井村、中根村、柴内村、金指(かなざし)村、加生野(かようの)村、武州埼玉郡白岡村、下大崎村の9ヶ村)そのうち青木村の石高は850石と、知行地の中で最も大きな村でした。
▲6世紀始め頃の青木古山の山頂(113.2m)にある「御堂大日塚古墳」の石棺部分、青木古墳群中最大のもの
▲青木神社の南面「堂の入り古墳」から出土した人物埴輪「ひざまづく武人像」国指定重要文化財(国立博物館所蔵)
[文:舘野義久]
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